蕪村攷 (その二十) ―― 不二ひとつうづみ残して 蕪村は「画俳二道」あるいは「その二つの旅」と二道別々の道を歩みたりと見なされがちにて、繪の世界にては俳味ありて本物ならずと言はれ、俳諧にては繪描きの寫生句と輕くみられたるところあり。果して二足の草鞋履きたるものなるか。 繪は幼少より好めりと傳へられたれど、二十歳頃に難波より江戸におもむきて寄宿せる宋阿の夜半亭にては俳諧をこととし、繪は俳諧の插繪ごときものがあるのみなり。宋阿歿後、二十歳後半にならむとするに、北關東の下館、結城などに流れて食客たりし頃より、熱心に繪の修練を始む。されど特定の師につきたる形跡見當らず。「吾に師無し古今の名畫をもて師とす」なる告白の辭あるが事實ならむ。近邊の素封家や寺などに掛れる繪を見歩き、そを模したりせしならむ。以後蕪村、終生宋、明、清代大陸の畫家の繪を模して、己れの畫嚢を肥し、あるいは活計(たつきの)の助けとなせり。著作權など無き江戸の世には、名ある元の繪に近く模倣せしものほど評價高きこと、現代の人間には解しがたきことなれど、近時のごとく著作權に守らるれば守らるゝほど、藝術性の低くなること、人類にとりてのアイロニイならずや。蕪村の繪に題するや、「馬は南頻に擬し、人は自家を用う」「石田翁の筆意に法(のつと)る」「陳霞狂の筆に倣(なら)ふ」と、最晩年にいたるまで眞似たる中國畫家の名を躊躇ふことなく擧ぐ。されど日本の畫家の畫風は影響受けたれど、模したるものはなし。 蕪村、繪により幾つものの畫風使ひわけ、畫法も多彩を極む。畫風としては、日本における大和繪、琳派、土佐派、狩野派を用ゐ、俳句に登場する畫家には、雪舟、俵屋宗達、狩野探幽、雪信(女性畫家)、英一蝶、又兵衞など見らる。何らかの技法吸收せるに違ひなし。大陸の繪にては北宋畫、南宋畫、文人畫を直接模したりす。その幅廣きこと、讀書におきて廣汎なる書を渉獵讀破せることと軌を一にすとも言ひ得。かかる自由なる作品傾向は師を持たざりしことの餘慶にて、なまじの師につかば、その師の影響下から拔けだすは難からむ。既に江戸にて、俳諧の師宋阿よりは、師の句法になずむべからずと一棒を喰はされたる蕪村なり。 同時に畫法も多種多樣にて、具體的に畫像を載する『芥子園畫傳』を教科書とせしことにより、たとへば、「夏珪雜樹法」「王維樹法」等々なる技術を學びて驅使す。この『芥子園畫傳』、吉宗が時代に和刻出るも、當代全盛をきはめたる狩野派は、笠翁畫傳は俗なるもの、町繪なりとてことさらに無視したり。されど日本にて南(宗)畫を描き始めし祇園南海は關心高く、高價なるこの書を富商より借り出して吸收し、後池大雅に授けて學ばす。『十便十宜帖』なる畫帖は、山住みの生活に便あること、自然の良さの宜なへることを數へ上げたる明末の文人の詩にして、十便を大雅が、十宜を蕪村が描き、國寶に指定されたるほどの逸品なれど、大雅、蕪村の兩者いづれもが『芥子園畫傳』を手習たるは、時代の奇貨とも、奇遇とも言へむ。 畫法として更には、胡粉をフレスコ畫のごとく下地に塗る、疊にぢかに畫紙を置きて描き疊目を見す、霏霏と降る雪片を塗り殘したる紙地にて表はす抔、工夫に工夫を重ねたること、あまたの先覺の研究成果を繙きて氣づかされ、その度に驚嘆す。 かかる多彩なる畫風、畫法なれど、蕪村繪畫の總體を眺むるに、そこに相對する二つの傾向容易に見得る。すなはち倭繪と、それに對する漢畫なり。門人への手紙に、今囘送る山水の繪は北宗家の畫法にて描きたり、自分持ち前の畫法にてはなく、好みの筆意ならざるが、隨分と華人の筆意にはのつとりをる、とある。漢畫は身過ぎ世過ぎのため世人の受けに配慮して描き、しかしかなりの努力を傾注せる成果なりき。 つひには蕪村、晩年の六十歳を越えしころから、新しき藝術世界を作り上ぐるにいたる。いはゆる「謝寅」の落款を使ひたる傑作多き境界に入りたる、「はいかい物の草畫、凡海内に並ぶ者覺え之無く候」と自負せる「俳畫」の世界なり。俳畫は既に芭蕉なども描きはしたるが、一つの小さき畫面に、詩と書と繪を總合させたる宇宙を創造せるものにて、自負するとほりに蕪村日本にてその頂點に立つ。俳人は詩想を、書家は筆觸を、畫人は畫技を專らとし、別人格のごとく思はれしものを、ひとつ作品に止揚せるが俳畫と言ひ得やう。 密教の世界に「 二と云ふ、とさる。密教の曼荼羅は金剛界、胎藏部の兩部より なる。而二の姿なり。しかしこの金胎は一如だとす。この一は、 一足す一の一とは異る。二つのものの合しての一なり。これは 人の理解の難しきところなり。 茲に俳諧の想あり、よりて書あり、繪畫あるを融會せるが俳畫と呼ばるゝものなり。偶々蕪村の晩年に「富嶽列松圖」あり。竹取物語には「不死」の山とある「不二」山を描けるものにて、畫面には俳句書れざるも、蕪村の名知る者なれば「不二ひとつうづみ残してわかばかな」のたちどころに思ひ浮ばむが故に、俳畫とも言ひつべし。畫と俳句との二を融解して新なる世界を産みたる不二の俳畫と言へむ。さらには「不二颪(おろし)十三州のやなぎかな」なる句あり。蕪村が畫、太宰治が『富嶽百景』に「鈍角も鈍角、のろくさと擴がり・・・決して、秀抜の、すらと高い山ではない」と書けるとほりの描き樣にてはあるが、麓十三州にある柳のことごとくが、その不二颪に靡き伏す。落款、この「謝寅がき」の時代に「蕪村」とあるも極めてめづらかなることなり。下賤の臆測なれど、海内一の俳畫を描く我なりと、蕪村、内々に富士を己れに擬したるにてはなきか。
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