蕪村攷(その十 ) ―― 遲き日のつもりて 


    日暮日暮春やむかしのおもひ哉

  この句、伊勢物語の「月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」、またそを本歌とせる俊成女の「面影のかすめる月ぞ宿りける春や昔の袖の涙に」より誘發せられし句なれど、和歌のいづれも「戀」の部に置かれたるに對し、この「思ひ」、春の夕暮に昔てふ遠き時間を思ふとも解せられむ。

  近代科學は假説を樹て、實驗、實證をなして成果を擧ぐるもの、殊に數學は出發點の發想、藝術作品創作にも劣らぬイメージの湧出が大切とかねがね聞き及びをれば、かつて中高にて數學を教ふる同僚に、積分につきては如何なるイメージを持たるゝやと尋ねしことあり。美しきその教師の應じて曰く、積分といはば、粉雪の霏々と降れる樣浮び出づと。さこその妙なるイメージなりと、それ以上積分に理解の及ばぬ身なれば長く忘れざりしに、さる時蕪村の句を口ずさみし折にその言葉思ひ出でらる。

    遲き日のつもりて遠きむかしかな

春日遲々、長き日なる語と同類の「遲き日」からは、暮れさうなれど中々に暮れざる日暮の、今か今かと時間の小刻みに意識されて、細分化せる時の思ひとも言ふべきものこの句より傳はらん。かくの如き時間の、雪の細片の降り積むに似て積りつもりしものが「遠き昔」ともなるか、他の類句とともに、懷舊と稱する蕪村の時間感覺、ことにインテグラルにとらへし感覺に驚嘆するのみ。因みに、蕪村の同年代、和算においても定積分表の作られ、面積計算のなされたる由、さらに微分法も考へいだされしといふ、これも一つの時代精神のもたらせるものなるか。
 
   かの教師、微分のイメージとしては鰹節を一途に削るがごとくなりと言へり。女性ならではの發想にして、とは言へ人をして微分の理解を容易ならしむと諾へり。蕪村に微細なるものを採り上げし句少なからず、中より一つを採らば次の句なるか。

      蚊の聲す忍冬の花の散ルたびに

  ほのかなる香を發する忍冬唐草の微細なる花の散る度に、小さき蚊の驚きて羽音を立つるとも、蚊の動くによりて花びらの小片の散るとも解し得ん。意想外なることに蚊は花の蜜を好むと言はる。誰か知らん、蕪村ならではの精細なる觀察ありてこの句生まる。即物ながら、微細なる世界の音聲と視覺と嗅覺とをよみこみて、微分的小世界を共通感覺の宏大なる宇宙となせる句といひうべし。

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