蕪村攷(その十三 ) ――菜の花や月は東に日は西に

 蕪村は己が生涯の前半を語ること皆無に近かけれど、生地の、大阪の近在毛馬村なることは晩年の手紙にて知らる。蕪村の幼少期、この淀川の氾濫に惱まされがちなる農地は、稻の裏作として菜の花が栽培されたること、文樂、歌舞伎の「新版歌祭文」が野崎村の段よりも推察せらる。野崎村は毛馬村の隣地ともいひうるところ、當時、照明用としての燈油の需要増大し、他方油搾り技術進みたることもありて、一帶「菜種菜の花咲き亂れ」たるなり。かくてこの句の光景は、蕪村の幼き頭に自づと燒付けられたるものなるやも知れぬ。近時、和蘭の鹽田風景のテレヴィに映りたる中に、廣き菜の花畑ありて意外の感を催す。まさに、「なのはなや昼ひとしきり海の音」の世界なり。揮發油代りの菜種油、佛蘭西より輸入さるとの報道あれば、今や菜の花の句の景は、我が國にて郷愁を誘ふもののみにあらずして、世界普遍のものなるを知る。

「蕪村」なる雅號の名付けの意味につき、一説は故地の天王寺村の産物「蕪・かぶら」に因むとす。このかぶらも油菜、つまり菜の花の一種なり。一方、大方は「荒蕪」「蕪雜」などの熟語より類推し、そが意、「荒る」「雜草が茂る」より、荒れたる故郷のイメイジから名付くとなす。されど爾雅には「蕪豐也」「蕪者繁蕪也」とあり、同じ「荒る」にせよ、何物も無くて荒れ果たるものとは異り、雜草の繁りすぎたる雜多、豐富を意味す。有り過ぎて外見の荒れたる如く見ゆる姿なり。漢文に造詣深き蕪村のことなれば、本意を識りて、表は荒るゝ樣を見せながら、内に豐かさを祕めたる世界をイメイジしたるもの、まさに眞(まこと)の詩人にあらずや。

菜の花畑と共に、日と月が詠みこまる。先賢により調べられたること種々あり。月が東、日が西と同時にあるは毎月の望の前後にて、大きさも同じに見ゆるといふ。さらに陶淵明が「白日西阿(西の山)に(しづ)み、素月東嶺に出づ。遙々たり萬里の輝き、蕩々たり空中の景」の詩より作れるものとする説あり、柿本人麻呂が「東の野にかぎろひの立つみえてかへりみすれば月かたぶきぬ」を踏まへたるもの、李白が詩「日は西に月は復東」より、さらには丹後の民謠「月は東に昴は西に、いとし殿御は眞中に」より發想せるものとも詮索せらる。この句につき内藤鳴雪は、「一面に菜の花が咲いて居る。折から月が東に見え、日は西に入りかかつて居るといふ、東西同時に月と日を見たといふ廣々とした景色ではあるが、云々」と寫生句と解して面白き句にはあらずとせるが、敍景のみにてはなきこと、かくの如くである。
月日は何を意味するものならむ。最澄はその願文におきて、牟尼の日、久しく隠れて、慈尊の月、未だ照らさずと、日を釋迦に月を彌勒に喩へたり。蕪村は如何。歌仙「もゝすもゝ」の序に書付けたるは次のごとし。
夫俳諧の闊達なるや、實に流行有て實に流行なし。たとはゞ一圓郭に添て、人を追ふて走るがごとし。先ンずるもの却て後れたるものを追ふに似たり。流行の先後何を以てわかつべけむや。
長距離走などにおきて圓形トラックを走るを見るに、どの選手の何周なるか、先か後かの分明ならざるときあり。俳諧の流行もそれに似るといふ、天周にても日が先か月が先かを喋喋するに、何の意味ありやと。

na no ha na ya と開放的な a 音の多用による明るさ、切れ字「や」の效用と共に、かほど平易なる語にて、かほどに大きなる世界を現前さする句は古今稀にてはあるまいか。 

 

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