ここにカナダ人グレン・グールド登場す。三十歳頃までの六七年間、演奏會にてピアノを演じて名聲を博しをりたるグールドは、三十一歳以後聽衆の前には立たず、もはらレコードへの録音による演奏の世界に閉ぢこもりて、しかも名聲を維持せる天才音樂家なり。五十歳より先はピアノは彈かずと豫言せしその年に急逝せるも、その折に枕邊に置かれたる本は聖書と『草枕』なり。つまりグールドは、夏目漱石の著はし、英國人アラン・ターニィAlan
Turneyの譯になり、書込みのせられたる小説『草枕』が譯本を死に至るまで枕頭に置きたるものなり。英語の題名は
"The Three-Cornered World"、本文中の「四角な世界から常識と名のつく一角を摩滅して、三角のうちに住むのを藝術家と呼んでもよからう」よりとられたるものなり。音樂以外にラジオや映畫にも手を擴げたるグールド、放送にて草枕の第一章をおのれ自身にて朗讀もし、さらには草枕全體をラジオ番組にせむとも企圖したるほど草枕にうちこめり。終生獨身なりしグールドの、虚構の世界の中なる異國女性、那美さん及び那美さんにまつはる傳説的女性たちに惹かれたるならむか、はたまた蕪村が世界の再現とさるる漱石が藝術觀に同調せるゆゑなるか。