蕪村攷(その十四) ―― 老が戀忘れんとすれば 芭蕉が故國伊賀を出、江戸にて世に交りたるは歳二十九、しかるに三十七歳にして深川に退隱し、「簡素茅舍の芭蕉にかくれて、みづから乞食(こつじき)の翁と呼ぶ」と懷紙に認む。かかる若さにして乞食の翁を自稱する心がうちは、乞食の境涯をよそはば、浮薄なる點者とは一線を畫せること弟子たちの目に立ち、恬淡とせる枯淡の老成者を自稱することにより、背伸びせる姿の匿さるゝことあらむと意圖せるものにして、屈折せる諧謔的心情と言ひ得べし。因みに、蕪村が句に、「とし守夜老はたうたく見られたり」とあり。 一般に江戸時代、隱居し家督を讓りたる後は「某老」と呼ばれたるもののごとくにて、某の年齡とはかかはりなきこと、律冷制にて老は六十一歳より六十五歳までと規定せられたるとは異るところなり。 蕪村には韜晦の心性なく、隱居せることなけれど、五十歳を過ぎたる頃より書翰などにて老の字を用ゐ始めたるもののごとし。明和五年の書翰には「拙老」と自稱し、「老心つかれ候」とも書く。發句などにも老の字、よく現はる。 さみだれのうつほ柱や老が耳(明和六年) よき角力いでこぬ老のうらみかな(明和七年) 「うつほ柱」とは寢殿造にて用ゐらるる中空箱型の雨樋を指す由にて、耳遠くなりたる老人が五月雨る心に、うつろに響く耳音にまことに適ひたる句と言ひえやう。油繪なれど、仙人熊谷守一が描ける雨樋が聯想せらる。 人老いぬ人又我を老(らう)と呼ぶ(安永四年) 「此ほとり 一夜四歌仙」に見らるる付句にて、今のわれらも日常に體驗することならむか。久しぶりに逢ひたる知人を見て、心の中に、いや、あの人もなんと老けたるものかなと思ふに、相手も我を見て、某老と呼びかくるに驚き、やはりと氣を落す。 老が戀忘れんとすればしぐれかな(安永二年) 五十八歳の時の句なり。「世上皆景氣(風景)のみ案じ候故、引違候而いたし見申候」と紹介の書翰にありて、心情吐露の句とす。さては蕪村の體驗を詠めるかと思ふに、こは「巫山の雨」、楚の懷王の夢に神女と契りしを暗示すといふ。戀心を胸にしまはんとするに、夕の雨が夢の中のたのしび憶ひいださるの意なり。されど、蕪村にいささかの戀情なからむか。「しぐれ」は冬をしらする冷き驟雨。此の歳なり、忘れむ、忘れむと思ふ心に追打をかけるがごとき時雨に逢ふ。そが心情を句に表現するところに、後ろ髮引かるゝ思ひが殘る。 蕪村になじみたる藝妓あり、小糸といふこと、何通もの書翰に現はるるによりて知らる。かなり親しかりしならむ、天明二年の「花櫻帖」に「いとによる物ならにくし巾(いかのぼり) 大坂うめ」てふ、女性の如何にも直截的なる心情の句見らる。うめは大阪の藝妓ならむ。そが「いと」と蕪村の仲を妬きをる樣を句にせるなり。さほど目立ちたる仲なりしならむ。 安永九年、蕪村は弟子の道立へ手紙を書く。 青樓の御異見承知致し候。御尤の一書、御句にて小糸が情も今日限に候。よしなき 風流、老の面目をうしなひ申候。禁ずべし。去ながらもとめ得たる句、御披判可被下候。 妹がかきね三線草(さみせんぐさ)の花さきぬ これ、泥に入て玉を拾ふたる心地に候。 眞面目なる弟子道立の、蕪村の茶屋遊びに忠告したるに對するものなり。されど、さらなる佳句を得て、蕪村の心は躍る。先の大阪うめ女の句からも、小糸とのつきあひは淡くとも切れはせざるもののごとし。蕪村には、道心より戀心、美の世界こそ確かなる世界と信じられたるにやあらむ。 寒梅を手折響や老が肘 畑打や耳うとき身の只一人
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