蕪村攷 (その十八)
―― 時鳥ほととぎす絵になけ東四郎次郎しろじろう


芭蕉は伊賀に生れて江戸に在住し大阪に死す。蕪村は大阪に生を受けたりとされ、江戸、常陸に滯在し、京に移り住みて死せり。二人とも何ゆゑの江戸行きなるや、誰もおしはかるのみ。

 二十頃に蕪村は江戸にありて、宋阿と號する俳諧の宗匠夜半亭巴人の内弟子たり。宋阿が薪水の世話と座の執筆役をつとむ。おそらくはこの二人、京都にて識り合ひ、江戸俳壇の墮落を救はんことを望まれし高潔の士巴人が江戸に戻るに伴ひたり。日本橋は石町に住む。芭蕉もこのあたりに住みたることあれど、近邊に多き點取り俳諧師との交りを好まず深川に隱退せり。芭蕉がさびしをりを旨とせし宋阿は日本橋に居を据ゑたれど、五年ほどが内にこの世を去る。蕪村は江戸の俳壇とは肌合ひを異にするものなれば、日本橋に孤獨を噛みしむるに至りて、常陸の結城、下館の俳人達の世話を受く。更に淨土宗の寺にも止宿して、佛弟子ともなる。後あちこちと旅するに、この黒衣の法體は無一文に近い蕪村に何かと役に立つたること容易く想像せらる。芭蕉にあやかる奧の細道の旅には三年の歳月をかけたり。

 畫俳二道とも言はるゝ蕪村は、なればいつの頃より繪を習ひ、描き始めたるものならむか。推測するのみなれど、下館の滯在の五年の間の句作はあまり知られぬ。寢食を忘れて畫道の修行に勵みたりとの滯在中村家の口傳へある由。中國明時代の畫家文徴明の描きたる「八勝圖」を懸命に寫したるもの、今に殘る。 後年蕪村は、弱冠のころより俳諧にふけりと囘想せるが、江戸俳諧の現状を知り、、眞摯な姿勢は貫けるものの常陸の狹き俳壇に寄食の身にては己を活かすこと適はずと悟りたるに違ひなし。言葉の藝は誰にても關はりうるが、繪にて立たむとせば、中國の文人とは相異り、本邦にては專門の職となさねばならぬ。しかも良き繪を多く見ねば腕をあげること能はず。當時の關東には江戸狩野派の因習的なる畫と固陋なる畫人ばかりにてはなからむか。句集の配付は刷り物により、中に版畫も含まるゝこともあれど、句が主にて畫業とは言へず。鈴木春信、喜多川歌麿らの浮世繪の流行するは蕪村の次の世代にて、しかも俳諧の世界とは縁遠し。

 三十六歳にて、二度と戻ることのなかりし關東を離れ、京に登りたる蕪村は、桃山期の豪壯なる障壁畫などを見巡りては「おもしろく相暮し」、たとへば大徳寺を訪ひ、襖繪の「四季花鳥圖」を見て冒頭の句を詠む。東四郎次郎とは、狩野元信がことなり。中國より舶載せられし樣々なる樣式の繪畫をも目にしたことは確かにて、それらを肥し畫業を擴げて行たり。されば蕪村は、紳士録ともいふべき『平安人物志』には、畫家の部に分類せられたり。





 

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