蕪村攷 (その十七)
―― 柳ちり清水かれ石ところどころ


「草枕」が蕪村の世界をなぞるがごときところあるは、そこにあまた現はるる俳句にて知らるゝが、草枕本文には「 畫家としての蕪村」が名見えたり。「惜しいことに雪舟、蕪村等のつとめて描出した一種の氣韻は、あまりに單純で且あまりに變化に乏しい」と登場人物の畫家、己のこれより描かんとする、内心の複雜なる繪に比べて言ふ。いづれも天橋立を繪にせることを漱石知るがゆゑにとりあげしものか。ここに蕪村、なんと畫聖と讚へらるる雪舟とならべられたる畫家としての榮譽を擔ふ。

蕪村、幼少より繪を描くことを好み、若くより畫家たらんとの志を持ちたりと察せらるるも、殊更なる師につきたる氣配なく、習作的なる繪はあれど、四十を過ぎてもさしたる画業なし。繪にて生業なりはひを樹てられしは五十歳近くになりてのことなり。

ここに一書あり、名づけて「芥子園畫傳(笠翁畫傳)」といふ。明末に鹿柴(王安節)、歴代名家の山水の畫式を集めたるを、清の康煕十八年に至りて李笠翁が畫譜として版行したる一種の繪畫教科書なり。畫論あり畫材説明あり、豐富なる插繪ありの行き屆ける書にて、意味むつかしきなどを始めとする專門用語ちりばめられをり。さはあれど、繪を學ばんとする者には必須の書と認めらるるに至りたれば、日本にもいち早く元祿末には將來せられたり。荻生徂徠が弟の繪の御用申付けられし折に將軍吉宗に笠翁畫傳を進呈して喜ばれたりと傳ふ。一方、將軍家御用繪師として盛りを極はめたる狩野派の權威主義は、笠翁畫傳などは「日本にて云ふ町繪也、中々ヨキ繪ニテハナシ」と齒牙にもかけぬ風情を示せり。

亨保期には、やはらかなる筆致を特色とせる大陸の南(宗)畫の影響を受けながらも、日本的變貌を垣間見する文人畫起る。日本にては、專門家にあらざる文人による繪、さらには水墨による山水畫をあらはせる畫を意味せる大陸の文人畫とは異り、池大雅をその筆頭とする樣式を呼ぶもののごとくで、山水も日本の自然を對象とせらるるやうになれり。

大雅はこの芥子園畫傳によりて繪を描く蘊奧を會得せりとされ、弟子に本書を講じもしたり。以後人文畫家は必ず本書を繙きて繪の修行をせり。大雅より八歳は上の蕪村もまたその例外にはあらで、かなり熱を入れて本書を熟讀玩味せること、蕪村が書翰などよりよく知らるるところなり。『春泥句集序』に蕪村は書く、「畫家ニ去俗論あり。曰、画去俗無他法。多讀書則書卷之氣上升、市俗之氣下降矣」 ここに蕪村が云ふ「去俗」はそのまま芥子園畫傳初集に見らるる論なり。師を持たざる蕪村にとりて、この畫傳こそが教科書たるとともに畫の師と思はる。




 

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