蕪村攷(その五 )
―― 今日もあり 該博なる知識を持ち想起力に惠まるればよき詩がよき藝術が生みだしうるとは言ひえぬ。蕪村が蕪村たる所以は、それと共に、敢へて言はば終生、人間實存への自覺を持すとさへ言へるところありたる故なり。「存在することの驚き」を最期に至るまで持ちつづけたりと推量せらるるなり。それを感ずるがゆゑに筆者と擧例せる句は異れど、ハイデガーの思考との類似を指摘するは森本哲郎や佐賀啓男などなり。現存在・ダーザインを身に體して意識せりと見らるる故にて、うべなへる指摘といはむ。されどハイデガーは希臘、羅典系の言語にて思索をなせる哲人なり。現存在は言葉に立ちあらはれるとせる上にて、東洋には東洋の言葉があり、東洋なりの存在の立ちあらはれやうがあらうと言ふ。佛者である道元が存在と時間につき思索を重ねるは、東洋の宗教者の中にては先驅的なれと必然のことともいへるが、文藝の世界にて現存在のありやうを提示するかと見える蕪村は、文藝を越えた高みの世界に屆いてゐたと言へなくもなし。 かかる考察をなせし後、蕪村ほど存在の意味にて「あり」なる語を使ふ俳諧師は見當らざることに氣付く。 はるさめや暮なんとしてけふも有 がその典型ならむ。春雨の降りつづきて一日が暮れしことの鬱々たる「アンニュイの感情をよく表現す」といふ人あれど、かかる退嬰的な感情を越え、むしろ、今日の、今の現存在を再確認せる發句と見なすべきと信じらる。 けふのみの春をあるひ(い)て仕舞けり 最期の「けり」は咏嘆ならむ。「歩いて」「歩く」は「ありく」を語源とし、「有り・在り」と密なるかかはりを有す。蕪村の意識せるところならむ。この句の意味せるは、かけがひのなき「今日のみ」「今のみ」なる瞬間瞬間の存在に對する感慨を詠みしものと思はる。淨土門の人なれど碧巖録にも目をとほしてをりし蕪村なれば正法眼藏を讀みもしたらん、道元の存在と時間に關はる思考過程に近く、「さきありのちあり、前後ありといへども、前後裁斷せり」の境地を理解し、體驗せるもののごとし。更なる參考句、 きのふ暮けふ又くれてゆく春や |
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