蕪村攷 (その十五 )―― うつつなきつまみごゝろ、負くまじき角力 蕪村が句の多義性、多層性は、ひとつには十七字にて言ひきらねばならぬ俳句の特性よりくるものとも言ひえむ。芭蕉の常々いましむるところは、「いひおほせてなにかある」、「くまぐま迄謂つくすものにあらず」にて、當然ながらに象徴的にも隱喩的にもおちゆかう。蕪村は多義語を意識して使ふこと多けれど、この項にとりあぐる二つの句が二樣三樣に解釋を許すは、蕪村の創作意識を越えたるものと言へやう。 うつゝなきつまみごゝろの胡蝶哉 『蕪村句集講義』(輪講)にて高濱虚子は言ふ、「胡蝶の羽をおさめてとまつて居るのをつまんだ時の心持で、其時の心持はうつゝでは無い即ち現在では無い夢のやうなぽーツとした心持であるといふのである。莊周の故事で胡蝶といふと多少夢を連想する、其連想もいくらかあるのであらう」 。この説に贊成せるは、河東碧梧桐、中村草田男などにて、すなはち「つまみごゝろ」を、人が蝶を抓んだ氣持と解する立場なり。「うつゝなき」も人の心持とす。 因みに、この句におきて、「うつゝなき」は連體形にて、「こゝろ」にも、「胡蝶」にも掛り得。また「つまみ」は、「つまむ・他動詞」の連用形の名詞になりたるものにて、「酒のつまみ」「摘み菜」にて知りえむ。名詞の機能ははたせど、他動詞の意識は殘りて目的語を求む。されば主語はいづれか、目的語は何か、誰が何を抓むものなるかによりて見解の分かるゝところとならむ。人がつまむか、蝶がつまむか、蝶をつまむか、留れるところをつまむか也。 この組合せうる數だけ句の解釋可能ならむ。そこより、虚子とは逆の理解生じたり。蝶が何かを抓みながらうとうととうつつなき夢心地にてある姿と見ゆるとする。「つまむ」の主語の、人より蝶へと變はる。さらに佐藤紅緑は、うつつなき胡蝶を見をる人が、さやうなる蝶を抓みたしと思ふ心地になる、とまた一段の解釋違ひを提示せり。果たして蕪村の作意はいづこにやあらむ。讀み手に依らむと投げかけしものと想像するよりなからむ。 過去のことなるか、明日のことなるかに惑はさるゝ句あり。 負くまじき角力を寢ものがたり哉 「寢物語」は、男女が床をともにしながら語り合ふこと、乃至その話を言ふ。 輪講には次のごとき興味のもたるる發言あり。 鳴雪氏曰。角力取も往々女房を持てゐるものがある。此句も或る負相撲が其夜宅へ歸つて夫婦の寢ものがたりに話すところ、今日の相撲は負ける相撲ではなかつたが殘念な事をしたとか何とか夫婦中よく殘念氣に話してゐるのであらう。稻川が女房おとわに向つて話してゐるやうな趣きがある。尤も稻川のは未來の勝負のであるが、これは負けた時の句と解した方がよい。他三人皆曰(碧梧桐、紅緑、虚子)。角力取夫婦の寢もの語りとは思ひもよらぬ御説で、又負まじきは未來とした方がよからうと思ふ。これは相撲を見物するものがあすの勝負を氣遣ひつゝ自分のひいきのあの相撲はあす負けてはならぬ負かしたくないと互に念じつゝ其由を寢もの語りにしてゐるのであらう。鳴雪氏曰。これは又意外な御説で、私は私の解釋以外に御説があらうとは豫想しなかつた。其を三人揃つて私の説が思ひもよらぬなどとは其こそ思ひもよらねわけである。 子規いふ。これは無論鳴雪翁の解釋より外に解釋のあるべき筈がない。併し翁の解釋中に相撲取夫婦とあるのは贊成しなし。誰れでもよいわけではあるが僕は男同志の寢もの語りにしたい。例へば誰かの相撲部屋で小相撲などが互に話し合ふてゐる場合と見てもよい。 「まじき」は、「べし」の否定「まじ」の連體形なり。 さすれば、文法書にはその意味を、打消の推量・意志・當然、不可能、禁止とあり。そこより「負くまじき」は、一、負けるはずなき、二、負けてはならぬ、三、負けなからむ、その他の意味とときうる。虚子らは二の、負けてはならぬ大事な一戰とせしが、芥川龍之介はこの句を、負くるわけのなき今日の晝間の負け相撲を寢物語とする、と解せり。鳴雪と同じ解釋なり。 そを金田一京助が「芥川氏の解は文法にとらはれない、直ちに日本語法の精髓に徹した、深い理解であると歎ぜざるを得ない」と文藝春秋誌上にて讚へたとは、太田行藏の證言なり。この金田一京助なる人物、言語學者を自任せるも、「文法家、言語學者などは銃後の護で、精々規則性をあとからあとから發見して記述して行く立場である。文法の拘束力などは、ただ語學の實習途上にあるものに對して持つだけ、・・・」などと己が天職をおとしむるがごとき發言を安易になす。言語は文法を内包せるものなり。いかなる文も文法をはみ出すわけに行かぬものなる自覺さらさらになし。そを芥川に媚を賣るがごとく、芥川氏の解は文法的ならずとも深く理解せるものと歎じてみせたり。自己撞着の最たるものと言ひうべし。戰後かかる人物により日本語の損壞せられしをこそ筆者は歎じるものなり。 この句、文法から解釋にては勝負のつけられぬもの、されど蕪村自身が決着を示す、俳畫の自畫贊によりてなり。「懷舊」とあり。同じ俳畫に四人の句も書かれ、内三人はすでに故人となれるものなり。そが多重に構成されたる意圖はともかく、この句が過去に破れたたたかひを指すものなることが知らる。大男のいぢいぢせる愚癡を妻のやさしく受けとめたる情景の想像せられ、一段と蕪村藝術の力量のほど、はかられたり。 一つの意味より持たぬ作品と比べ、幾つもの解せらるるは、作品を讀む樂しみならずや。
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