蕪村攷(その六 )
―― 浪もてゆへる秋つしま
「人は言葉の杜に栖む」なる詩的表現にて哲學を語るハイデガーは、
「詩人的に人は住ふ」とも言ひてヘルターリンを採上ぐるが、芭蕉の句
も識りたるは周知のことなり。(蕪村を論ずる者にとりては、蕪村の獨
譯ありせば打つて付の題材となりしものをと慨歎するのみ)。
メスキルヒ市の謝肉祭に猫と鼠の面をかぶりて騷ぐ猫連なる若者たち
が、ハイデガーを目にとめ署名を頼みしところ書きたるが、芭蕉の句
「麥めしにやつるる戀か猫の妻」なりきとは、早稻田大學の川原榮峰
師の報ぜしところなり。猫連相手とならば直ちにかくのごとき句の泛
ぶほどに芭蕉句はハイデガーの頭に入りたるなり。
芭蕉句の中にても殊更に「雲雀より上に安らふ峠かな」を好めりとさ
るるは、さすが哲學者といふべきか。ドイツにて雲雀は、神近くの高み
にまでのぼり、美聲にて神を贊美すとさるるゆゑ、それよりもさらに上
に在ることを稱へたりと解かるるが、逆に、上の世界より形而下の世界
を一望にせりとする解釋も成立たむ。「この道や行人なしに秋の暮」か
ら類推せば、己ひとりの高みの境地を詠みたりとも言ひ得べし。
蕪村にも高みからの句が何句もあり、ときに宇宙感覺と稱すべきめま
ひを感ぜしむ。
ほとゝぎす平安城を筋違に
この句は、碁盤目に作られし京の街の上を、ほととぎすが端から端に斜
に飛びたりと解さるるものにて、中村草田男は夜の音のみから想像せる
ものとするは當らず。晝の東山の上より見たる景とするが一般ならむ。
夏山や京盡し飛鷺ひとつ
更に廣大といへるこの句からすると、ほととぎすの句も、もはや東山か
らなどといはむより、空から見たりとするがよしと想はる。
稻づまや浪もてゆへる秋つしま
古今集よみ人しらずの「白妙の浪もてゆへる淡路島山」の語句を藉り
はするものの、淡路が「あきつ島」となると規模雄大、日本全體を指
すこととなり、暗闇に稻妻一閃するや白波に縁取られし日本が見えた
りとなる。こは、峠よりはるか上方、飛行機にても間に合はず、宇宙船
よりの光景ともみなすべきならむ。
月天心貧しき町を通りけり
この句、作者が下々の住む町を通れりと解する説も多く、草田男に至り
ては月を頭上のものとして視野から消せるところを凄じきものと稱贊せり。
されど筆者は「天心の月から俯瞰されている感じがある」とせる安東次
男に近し。筆者の論據となすは、「月光西にわたれば花影東に歩むかな」
なる名句の存在することなり。天空の眞中に照れる月が、形而下の町を
通りゆくと想像するも可ならむ。蕪村の作句視點、遂には月の高みに至
れるものなり。