蕪村攷(その三 ) ―― 井手を流るゝ鉋屑             

  森外が『妄想』の中にて引用せしことばに、人の福と思つてゐる物に跡腹の病めないものは無い中に、その無いのは、只藝術と學問との二つ丈なりとあり。己が經驗に照らしうべなへる意見といふべし。されば藝術とは何ぞ。蕪村よりの大なる影響ありといはるる漱石に、靈台方寸のカメラに澆季溷濁の俗界を清くうらゝかに收め得れば、詩は画は足るの言あり。いはゆるホトトギス派的寫生主義に似るも、さすが漱石といふべきか、現實の單なる寫生といはむより、たましひの宿るカメラの寫せるところなるを示唆す。沙翁は一歩を進め王子ハムレットの口を藉りて言ふ。自然に向ひて鏡をかかげ、善は善なるままに、惡は惡なるままに、その眞を抉りだし、時代の樣相を浮びあがらせるものこそ劇、すなはち藝術なりと。あるはかくも言ひ換へ可能ならむか。假面を表舞臺にのせ、その假面の奧にある眞、素面を觀客に悟らせんとするものが藝術なりと。蕪村も書簡にて「詩の意(こころ)なども、二重にきゝを付て句を解(かいし)候事多クあり」と注す。詩は、藝術は素面に假面をかけたるものにて、アンビヴァレントなるものなりの意ならむ。二重の意味、ダブル・ミーニング、さらに多重の意味を籠めて人生の、世界の深みを探り得るものならむ。
 
    山吹や井手を流るゝ鉋屑


   「只一通(とほり)の聞(きき)には、春の日の長閑なるに、井手の河上の民家などの普請などするにや、鉋屑のながれ去(さる)けしき、心ゆかしき樣也」と蕪村は書く。表の心なり。されども下心には故事を踏ふ。能因法師がさる數寄者とはじめて出會ひたるをり、引出物とて錦の袋より鉋屑一筋を出し「是は我重寶也。長柄の橋つくる時の鉋屑也」と云に、數寄者も懷中より紙に包めるもの取出し「是は井手の蛙也」とかれたる蛙をあらはす。ともに感嘆して各また懷中して退散す、といふ話にて、井手も長柄も歌枕なり。

   
  蕪村ある人の三尺の鯉くゞりけり柳影」につきかく評す。「眼前の實景にて眞卒なる句に候へども、是は左のみ作者の粉骨も見えぬ句にて、不用意の句にて候。あしき句にてはなく候へども、骨を折たる作者の意を失ひ候」 發句は見たままにてはなく、粉骨碎身、頭を絞りて生み出すものにて、二層、多層に意味をふくらますべきと説く。一見單純に見ゆる蕪村句とても、讀み手が解釋するにあたりては作者同樣、粉骨の意をもちゐ、絶えざる用心の肝要なること、この言にても知らる。

目次
詞藻樓表紙へ   文語の苑表紙へ