蕪村攷(その三 )
―― 井手を流るゝ鉋屑
森外が『妄想』の中にて引用せしことばに、人の福と思つてゐる物に跡腹の病めないものは無い中に、その無いのは、只藝術と學問との二つ丈なりとあり。己が經驗に照らしうべなへる意見といふべし。されば藝術とは何ぞ。蕪村よりの大なる影響ありといはるる漱石に、靈台方寸のカメラに澆季溷濁の俗界を清くうらゝかに收め得れば、詩は画は足るの言あり。いはゆるホトトギス派的寫生主義に似るも、さすが漱石といふべきか、現實の單なる寫生といはむより、たましひの宿るカメラの寫せるところなるを示唆す。沙翁は一歩を進め王子ハムレットの口を藉りて言ふ。自然に向ひて鏡をかかげ、善は善なるままに、惡は惡なるままに、その眞を抉りだし、時代の樣相を浮びあがらせるものこそ劇、すなはち藝術なりと。あるはかくも言ひ換へ可能ならむか。假面を表舞臺にのせ、その假面の奧にある眞、素面を觀客に悟らせんとするものが藝術なりと。蕪村も書簡にて「詩の意(こころ)なども、二重にきゝを付て句を解(かいし)候事多クあり」と注す。詩は、藝術は素面に假面をかけたるものにて、アンビヴァレントなるものなりの意ならむ。二重の意味、ダブル・ミーニング、さらに多重の意味を籠めて人生の、世界の深みを探り得るものならむ。 |
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