蕪村攷(その八 ) ――ゆく春や逡巡として遲ざくら

  蕪村が師とせるは、京より戻りて江戸日本橋石町に住まひし、夜半亭巴人
なり。その歿後三十年近く、京師の門人達の推擧によりて蕪村は「夜半亭」繼承
を肯んずるも、几董を後繼者とするを條件としてのことなり。安永九年(一七八〇)
にその几董と兩吟歌仙「もヽすもヽ」を刊行するに至りたるが、そは數年の兩者の
書翰、面談の推敲によるものなり。その往復書翰の一つに見らるるが次の句なり。

      二もとのむめに遲速を愛すかな

  この句紹介の書翰に書き加へたる追つて書きには、「紫狐庵(蕪村の別號)より文の
はしに、人の口のさがなさをいきどほりてかく聞えければ、梅の句にうぐひすを添て、
柳のいと長き交りをあらはす」とあり。この蕪村よりの文のはしに「かく聞え」たる
の事情とは、交友を重ねたる伊勢の俳人、樗良(ちよら)と蕪村とは、表向きは仲良
く見せながら、陰にては「蕪村は樗良がはいかいを嘲、樗良は蕪村が俳諧を笑ふと沙汰
いたすよし告る者有之候。・・・恐るべき事に候」てふものにて、蕪村が樗良に報告せ
る書簡によりて知らる。さうと知らば、二もとの梅とは、蕪村と樗良とに引き當てらる
るもの、それゆゑ、二重の意味を擔ふ句となし得む。すでに(その一)にて虚子の解を
引用せしが、その他の評釋にせよ、片方の梅が早く咲きたり、こは遲く散りたりなど、
實景を寫生せしものと表層のみにて高く評價せるは、至らぬものといふべし。この句、
蕪村句集に「草菴」と前書きさるるは、己の庭の梅にてはなきことを示すためと推測せ
らる。

  遲速に關しては『和漢朗詠集』上 早春 慶滋保胤(よししげのやすたね)に「東岸西岸
ノ柳、遲速同ジカラズ。南枝北枝ノ梅、開落已ニ異ナリ」があり、「春の生ることは
地形に逐(したが)ふ」との作者の注からは、凡俗の發想によるものと知らるるが、
蕪村はそれを本歌となして、「遲速を愛す」と斷言せることにより、一段も二段も立體
的なる作りとなし、世間の口さがなさに隱喩にて應へしならむ。

  この句、數字を使ひたる點に特徴のあらはれの見らるると共に、「遲速」「愛す」など
の漢語の多用が如何にも蕪村らしき用語法を示すものにて、殊に抽象語を適切に用ゐた
るは、日本人には類の少なきことならむ。

     三椀の雜煮かゆるや長者ぶり

なども趣きは異れど、十七文字に數字と漢語を納めたり。さらに、

      ゆく春や逡巡として遲ざくら

における「逡巡」なる漢語、「遲」など、蕪村の鋭敏な時間感覺をよく示せるものといふ
べきなり。
  

 

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