清淨に歸したる母           塩原 経央   

払暁兄姉の物音に夢破らる。
平生開かざるの門、
降霜に凍り固まりて愈々軋み、
哀哭切に、
寒き虚空に胡弓渡つて沁み入るが如し。

塵を払つて迎ふ、
先刻院裏に心音竟(つひ)に途絶えたる母の亡骸。
家に帰りて北を枕に休らふと雖も、
何ぞ其眼に梁(うつばり)の煤けたるを見、
柱時計の時告ぐる音を耳にするを得んや。

但し離魂せし色白の面立ちの
永遠(とは)に笑みの消ゆるなきに、
余は茫然と
臓腑に深き井の水を揺すられゐたり。
此時余が歳纔(わづ)かに九。

厳父は稍(やや)に額を曇らすも、
弔儀の采配肅々と執る。
朝暾(てうとん)竹叢(ちくそう)に出づれば、
早きは縁戚二三寄り集ひ、
悲哀胸に蔵したる父に与力す。

勝手方に隣保の女手
煮炊きする音間断無し。
冬の日は短く、
忽ちに日は長(た)け日は暮れ、
通夜の客三々五々来り来りて弔意受く。

僧侶の読経しめやかに、
其声調銀粒を散じて
荘厳の川を作り、
母の何処(いづく)へか流れ逝くに
余は手を束(つか)ねて見遣るのみ。

嗚呼、夫れより五十年。
寒気に咲く八重咲きの山茶花、
其花弁の手触りに母を憶ひ、
空に浮く一片の白雲に母を憶ひ、
皎々たる月光に母を憶ふこと頻りなり。

白玉の魂魄斯くて摩し摩され 余が心中に漉し漉されて、
今は早や純化して清浄(しやうじやう)の極みに帰したり。
同胞(はらから)幸ひに缺(か)くる無く、
本日相集ひて一尊の酒を酌む。

母よ、流れたる歳月の斯(かく)も長く遠き今夕、
多少の爛酔、
戒め破るを叱する勿れ。
生にとどまりゐる者の貧しき欣快の刻(とき)を、
母の彼(か)の永遠(とは)なる笑みにて包(くる)まれよ。
                                (十五・十・十八)

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