月の湯にて
塩原 経央
月の湯の宿にゐて、
湯殿に平生の塵芥を雪(そそ)げば、
眼下の湖上に風立ちて、
暮靄(ぼあい)漸々(ぜんぜん)として霽(は)れ行くなり。
野面(のづら)に一木(いちぼく)あり。
日の没するや黒き外套をまとひて、
智慧深き梟の如(ごと)、
はや湯浴みに倦(う)みし余を黙し見つむるなり。
樹影に炯々(けいけい)たる月輪(げつりん)かかり、
白泉(はくせん)潺々(せんせん)として尽きざるが如し。
雷撃一閃(いつせん)余が核心を貫く。
哀情溢るるに以(もつ)て受くるの器無し。
母よ、余りにも遠き母よ、
今ははや清浄(しやうじやう)の御霊(みたま)に化せし御身の影。
嗚呼(ああ)、月明(げつめい)何ぞ此処(ここ)に到る。
其(その)最も慕情の深ければなり。
(十五・六・十八)