殘像攷 (その一 )― 情は刹那を命にて
谷田貝 常夫


時は日露戰爭の最中、夏目漱石は小説『草枕』の主人公たる畫家に詩の、藝術の如何にして生まるゝかを考へさす。畫家は山路を登りながら、人間の精神活動の本源たる「知情意」に思ひを致し、そのいづれにも難あるに氣づく。そがレトリカルなる思考過程は斯くの如し。
智に働けば角(かど)が立つ。
情(じやう)に棹(さを)させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
兎角に人の世は住みにくい。
人の世のいづこへ引き越すとも住みがたしと悟れるに至りて詩は生まるゝ、とはその思辨よりの結論なり。住みにくき世から、住みにくき煩ひを引き拔きて、難有き世界をまのあたりに寫すが詩なり。詩が寫すは、難有き世界なり。


かかる漱石に對し森外は、日露戰爭の激戰の最中に身を置きながら同樣に「詩」につき思ひをめぐらす。しかして、詩の生まるゝは、知情意の「情」こそが酵母なりと氣づく。


情(じやう)は刹那を 命にて
きえて跡なき ものなれど
記念(かたみ)に詩をぞ 残すなる

我情こそは 時として
流石人をも 酔はすらめ
我詩は酒の 糟粕(さうはく)か


日露戰爭の陣中にて外、日々言葉によりて歌を紡ぎいだし『うた日記』に結實さす。そが冒頭におかれたる右の「うた」は、詩のありやうを詩の形をとりて自己解説し、全篇に共通する主題の如何なるかを提示す。

同じ『うた日記』中に「扣鈕・ぼたん」と題する詩あり。ふと氣づくと袖のボタン、ちぎれ失はれをれり。それより「惜し」とする情の生じ、存在せざるボタンの虚像に誘発されたる感情は、ボタンにまつはりつきたる己の過去を想起さす。


南山の たたかひの日に
袖口の こがねのぼたん
ひとつおとしつ
その扣鈕惜し

べるりんの 都大路の
ばっさあじゅ 電灯あをき
店にて買ひぬ
はたとせまへに

えぼれっと かがやかしき友
こがね髪 ゆらぎし少女
はや老いにけん
死にもやしけん

はたとせの 身のうきしづみ
よろこびも かなしびも知る
袖のぼたんよ
かたはとなりぬ

ますらをの 玉と砕けし
ももちたり それも惜しけど
こも惜し扣鈕
身に添ふ扣鈕


目前に喪はるゝ百千の兵士の死を哀悼する感情、それと共に、戰の場にて小さきボタンの失はれたるを目にし、それに對し哀惜の情の湧く。二十年身に添ひて己が經驗の一部となりたるものの不在への氣づき、その刹那に立ちあらはれたる情の深みが詩へと昇華さる。「經驗の總體をつくりあぐる個人の印象は、時間を無限に細分しうると同様にて、一瞬のものに限られをりて、その瞬間を認識せむとする間にすでに過ぎ去る」とはW・ペイターの歎きなれど、これまさしく「情は刹那」と同じきを指すならむ。されど、W・ペイターは、これらの群を形作る印象は一個の孤立せる個性にのみ属し、各自の精神は獨房における囚人のごとく銘々己の世界のみの夢を育むのみと世紀末的嘆きを慨く。
却りて外は、そのたちどころに消え去る情を命の發端ととらへ、時空を越えたる一篇の詩へと擴大す。刹那の想起より構成せられたる「我詩」は、經驗の「かたみ」となる。つまり詩とは、藝術作品とは、刹那の情に顯現するエングラム、「印象」の後に殘されたるものの定着ならむ。たとへれば、暮れなずむ山裾の残照、水邊に寄りくる餘波の漣、紺碧の空をひきさくコントレール(飛行機雲)、身をひるがへして立ちさる人の残り香のごときもの、その今のものでありながら、實態の失せてのちさらに過去の存在をしのばする"殘像"を「かたみ・記念」として寫せるものといひ得む。

 

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