散骨葬を駁す
                 塩原 経央   

或る僧の法話に曰く、
嘗て葬禮は土葬を以てするを常識と爲す。
時代遷(うつ)つて葬制改まり、火葬次第に優勢にならんとす。
末期の人涙ながらに云ふ、
吾死して地獄の窯にて焼かるるぞ悲しき、と。

今人云ふ、誰か火葬に地獄の亡者の姿を見ん、と。
皆人朽つるの肉焼かれ啻(ただ)に清浄の白骨を遺す、
之を誰か疑はん。
されば葬禮の風儀、
時世時節に随(したが)ひて変遷するを如何せん。

墓所高價にして戒名に亦値札付く。
かくて青海にまた樹林に散骨するの風潮漸々として展(ひろ)がり、
大楠樹の丘を共同の散骨場とする商賈(しやうこ)さへも現る。
死して大自然に還るは魂魄の安寧と之を自賛せり。
されど人間(じんかん)到る処青山ありとは生の覺悟の一に過ぎず。

逝く者の希求する處は永く自らを偲びゐる者のあることにして、
散骨葬はかかる死者の思ひを斷碎し却て離魂鎭まるの途(みち)を鎖(とざ)す。
そは死者忘却の狡知にして生者利便の餘に何物も無し。
葬制改まれども葬禮改まらず、古来墓所を定むるは、
慰霊、之に違背せざるを約する生ある者の死者への誓ひなればなり。

(平成十八年十月二十一日)




      前へ→

詞藻樓表紙へ               文語の苑表紙へ