折口信夫 □診斷・日本人
                 

 

 折口信夫は明治二十年、大阪に生まる。父は婿養子にて醫を本業とし、さらに家業の生薬屋を兼ぬ。幼時一時大和小泉に里子に出され、木津小學校を經て明治三十二年に大阪府立第五中學に入學せり。明治三十五年五月(十六歳)父死亡す。明治三十七年、卒業試驗に落ち、その前後に數囘の自殺企圖あり。されど翌三十八年(十九歳)には同校を卒業し得たれど、醫科を學ばせむとする家人の意を斥け、國學院大學に入學、同四十三年、拔群の成績にて卒業するや、釋迢空の號を初めて用ゐる。同四十四年、大阪府立今宮中學の教員となる。翌年、生徒伊勢清志らと志摩、熊野に旅行す。大正二年(二十六歳)、この年創刊せられたる柳田國男の「郷土研究」に投稿。翌年、職を辭して上京、本郷の下宿昌平館にて中學の教へ子十人と共同生活を始むるも、間もなく經濟的に破綻して一時神經衰弱となる。
翌四年、生徒の一人鈴木金太郎の下宿に身を寄せ、そのまま居つく。彼とはその後二十一年間(昭和九年まで)同居することとなりたり。
 同年、柳田國男、島木赤彦に會ひたることから、「アララギ」に近づく。翌年、萬葉集口語譯完成。翌六年、私立郁文舘中學教員、「アララギ」同人となる。夏、元の生徒伊勢を追ひ九州に旅行、無斷缺勤一ケ月のため馘となる。大正八年(三十三歳)、國學院大學臨時代理講師となる。西大久保に轉居。同十年夏、沖繩旅行、年末「アララギ」から遠ざかる。翌年、國學院大學教授となる。年末、谷中に轉居、翌年、慶應義塾大學講師となる。大正十四年、處女歌集『海山のあひだ』出版。短歌結社「とりふね」を創り、生涯續くることとなる。昭和三年(四十二歳)慶大教授となり、大井出石に轉居、以後終生この地を離れず。この地にて藤井春洋(はるみ)と昭和十八年まで同居す。
 翌年『古代研究』を出版せることにより、折口學の内容を組織的、系統的に提示せることとなる。この頃コカインを濫用しながら、不眠不休にて仕事に勵む。昭和五年第二歌集『春のことぶれ』出版。同七年『古代研究』により文學博士の學位授與せらるると共に、歌壇における地位も確立す。同十四年、『死者の書』上梓、翌年、國學院大學に民俗學講座を新設す。同十八年、藤井春洋應召出征し、加藤守雄との同居となる。翌年、春洋硫黄島へ移動、信夫は春洋を應召のまま養子に入籍せり。加藤名古屋へ逃走す。二十年、春洋硫黄島にて戰死。二十一年、『近代悲傷集』出版。老婢矢野あや子、折口信夫の死に至るまで同居す。翌年、『古代感愛集』『日本文學發生序説』出版。岡野弘彦、昭和二十八年の師の死まで同居することとなる。二十三年、『古代感愛集』により藝術院賞受賞。春洋の墓石をえらび、墓碑銘を書く。昭和二十七年、輕度の腦出血發作おこり、翌年(六十七歳)、胃癌のために死去す。以上が彼の傳記的事實の概要なり。



               (いひだ しん 精神科醫) 


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