折口信夫 □診斷・日本人
                 

 

 折口信夫は、過去半世紀の間に尤も個性的なる日本人の一人にて、釋超空と號したる、昭和歌壇の代表的なる歌人と言へると共に、民俗學、國文學の領域においても折口學と呼ばるる極めて獨創的なる學問體系を確立したる人物として知らる。本小論にては、手許に散在する幾つかの作品及び傳記的資料を參照しつつ精神病理學的視點より折口の人間像を素描せむとす。
 折口が内的世界を構成する重要なる部分は、詩歌、國學(民俗學、國文學)なれど、これらは獨立しては存在せず、互ひに關聯しあひて一つの神秘的なる結晶體を形成するがごとし。そのために折口の全體像を解明するにあたりては、折口が内的世界の構造的連關を探ることに大いなる手がかりが與へられむ。
 折口は短歌滅亡論を書きはしたれども短歌を捨つることなく、生涯にわたりて人間の孤獨、死、愛憎、悲傷をうたひつづけたり。折口にとりて詩歌とは、「自己の生命をみつむる詩人の感得」を表現する、生の基底音を奏づるものにて、内面の激せる情念を癒す鎭魂歌に他ならざりし。折口が詩歌の本質は「優雅さ」「細み」にて、アララギのうたふ「ますらをぶり」に對する「たをやめぶり」なりと言はるるごとく、折口の自己愛より發する女性的なる世界にあらむ。
 一方、折口は從來の實證主義的なる國文學には激しく反逆し、「新しき気概の學」としての國學を模索しつづ.けたり。「資料と實感と推感とが交錯して生まれくる論理をたどる」といふ獨自なる民俗學の方法によりて、古代文學究明の前提とすべき古代人の生活を再現し、古事記を讀み解くために古事記傳を書きたる本居宣長以來の國學の傳統を復興せり。折口にとりて國學とは、いはば自己の存立の基盤を支ふるものにて、強く激しき男性的なる世界なりき。
 また詩歌が日常的、意識的、現在的なる晝の世界に屬し、比較的直截に己の心情を吐露せるものといへるに對し、民俗學は無意識的、蒼古的なる夜の世界に屬し、折口が精神の深層の投影されたるごとくに見ゆ。折口はコカインの助けを藉りつつ、詩人のもつ直觀力、幻視力を高め、一種の神がかりの寔態となり、民俗學的資料を媒介として己が魂を古代人の魂と自由に交感させ、自身が古代人になりきることによりて古代人の生活を再體驗し、獨自なる日本の古代像を創造せり。作品の幾つかを讀まば(例へば『妣が國へ、常世へ』『貴種流離譚』など)折口が生み出したる日本の原像が、いかに強く折口の個性の刻印をうけ、折口の内面の幻想と深くかかはりゐるをみるべし。師柳田国男の民俗學が合理的、歸納的、實證的であるのに對し、折口の民俗學は直觀的、實感的、非合理的にて實證性なしといはるる所以はここにあり。
 折口は社會的には學者たり、教師たり、また歌人たり。かかる折口にとり生の姿勢の確立したるは、慶大教授となり、大井出石に居を構へたる昭和三年(四十二才)頃にて、以後、終生、慶應大學と國學院大學にて國文學、民俗學を講ずると同時に、短歌結社「とりふね」を主催せり。周圍に常に折口の人間的魅力に呪縛されたる愛弟子達を擁し、閉鎖的なる祕教團の教祖の如く彼らに無數ともいへる嚴しき戒律を課して全人的に訓育したり。折口は生涯獨身を貫きしが、ほとんど常に愛弟子の一人と起居を共にしゐたり。



               (いひだ しん 精神科醫)


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