平成新選百人一首 (第四十二) 願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ 西行法師(さいぎやう ほふし)=『山家集』(さんかしふ) 出來得るならば如月(きさらぎ――舊暦の二月)滿月の頃、櫻の花の下にて死にたきものよ……の意なり。 驚きたることに西行は、この歌を詠みし翌年舊暦二月十六日、この歌の通り花盛りの滿月のとき、河内國葛城山の弘川寺にて歿し、藤原俊成、定家をはじめ當代の歌人らに絶大なる感動を與へたりしとぞ。 西行法師は、鳥羽院の北面の武士なりき。その家系は「左兵衞尉(さひやうゑのじよう)の藤原氏」ゆゑに「左(佐)藤」と名乘り、 西行の本名も佐藤義清(のりきよ)なりき。先祖の藤原秀郷は俵藤太(たはら・とうた)と呼ばれし豪傑にて、近江の三上山にて大百足を退治したる傳説の主人公として繪卷物等にて親しまれたる人物なり。 西行の家系の、武士間に如何に重んじられしかは、西行出家し東國へ赴く途中、鎌倉に寄りしとき、源頼朝わざわざ營中に招き、夜もすがら語り合ひしことにも明らかなり。頼朝は弓馬のことを種々聞かんとせしものなり。 西行は二十三歳の若さで武士を捨て出家せしが、歌人として卓越せり。『新古今和歌集』の撰を主導せし後鳥羽上皇も心醉者の御一人にて、この敕撰集に西行の歌は九十四首も入り、俊成、定家、家隆等當代の巨匠をしのぎ、集中の筆頭歌人となれり。 〈作者〉西行法師 一一一八〜一一九○。 家集に『山家集』『聞書(ききがき)集』など。謠曲『江口』『遊行柳』に語らるゝほか、傳説多し。 解説原文 渡邊 昇一 わたなべ しょういち (上智大學名譽教授、イギリス國學協會會長) |