愛甲次郎 - 見えざる文化(季節なき暦) - 連載第三回・回教の復興
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見えざる文化(季節なき暦)一九八六年記す


連載第三回
 回教の復興

現在回教は再びその活力を回復し伝統的回教圏を越えて自己主張を行ひ関係者の注目を惹きつつあり。パキスタン或はスーダンに於ては鞭打の刑の復活の如く回教の戒律に基づく規制の強化をみ、東南亜細亜に於ても婦女の頭布を以て髪を覆ふは広く行はるるところなり。バハレーンに向ふ機中にてアラビア人の富豪に嫁げる白人婦人のいはく、湾岸諸国より米国へ留学せる青年にして文化の故に孤独感に苛まるるもの極めて多く、在米の回教学生組織、彼等に接近、慰め励まし而してこれを戦闘的回教徒に鍛直す例は枚挙に遑あらず。当人の混血の子息も狂信者となりて自由主義的教育に反撥すと。
日本に於ては理解し難きかかる傾向は、近代科学に代表さるる欧米中心の価値観の回教徒の眼前に過去の光彩を失ひしことに因ることは明らかなるも、経済情勢の悪化、政情の不安に対する政府の当面の対策として宗教による引締の有効なることも無視すべからず。
されど回教復活が如何にその勢ひを維持し得るや否やは回教自体の柔軟性に依存す。宗教の本質はさりながらその戒律、慣行はこれを生み出せる風土に依るところ大なり。異なる風土に齎さるるに於て特異なる戒律、慣行の布教の妨げとなること屡なり。いささか極端なれど断食月の例を取りて見む。断食月は昼は断食すべきも夜は飽食するを妨げず。回教暦によらば断食月の季節は定まらず夏も冬も等しく可なり。従ひて北欧にありては信者は冬なれば戒律は無きに等しく夏なれば餓死に頻すること必定なり。極北に住むもの回教に改宗すること有得べからず。
回教にありてもこれを近代生活に適ふところの合理的宗教に変へんとする動きあり。七世紀初頭、回教の農耕地帯に進出せる折、回教指導者の回教暦と土着暦の併用に示したるかの寛容と柔軟性を復せずして真の回教復興を見ること極て難かるべし。

▼見えざる文化(寸土を争ふ精神)連載第一回
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