『豐饒の海』(三島由紀夫)再讀の記


輓近三島由紀夫遺作『豐饒の海』の第一部「春の雪」映畫化せられ、目下市中映畫館に於て好評裡に上映中なりと聞く。余嘗てこの作品の上梓せられし頃購ひてその全巻を深き感銘を以て讀了せることを想起し、興味を惹かれて一日有樂町近くの上映館に足を運べり。余昨今の映畫事情に疎くして、この作品の監督行定勳の何者たるかを知らず、主演男女俳優の妻夫木聰、竹内結子の名前も初に耳にせる次第にして、馴染の名は岸田今日子の一人のみなり。上映時間は一五〇分に亙りてやや長きを感じたるも、大正初期らしき風物に懷かしさを覺え、最後まで興味を失はず視聽するを得たり。
されどこの作品を通讀せし時より三十數年を閲し、之に加へて老化に伴ふ物忘れのため、記憶に殘る物語の推移と銀幕上の展開との間の餘りの相違に大いに戸惑ひを感じたるも事實なり。 殊にシャム王子兄弟の來日等全く腦裡より消失しをれり。されば家に戻りて更めて「春の雪」を書架より取出して確認の作業に移り、結局はこの一册を通讀して映畫が、意外に内容を忠實に描寫せるものなるを知れり。
何十年ぶりに「春の雪」の結末に於て主人公松枝清顯が友人本多繁邦に對し、歸京の夜行列車中、發熱に喘ぎつつ『會ふぜ。きつと、瀧の下で』と輪廻轉生を暗示せる件を畫面に見、且つ原作に讀みて勃然として次ぎなる展開に興味を唆られ、結局は續く「奔馬」、「曉の寺」、さらには「天人五衰」を兩三日中に再讀し終はんぬ。これ等三巻を讀み進む中、「奔馬」に於ける巻末の日の出の切腹、「曉の寺」に於ける本多別莊の場面、「天人五衰」の最後の月修寺の場面等二三は目を通したる記憶も殘りをれども、大半の部分は初見の如き興味と感銘を以て通讀せり。 而して今囘受けし感銘は三十數年前とは大きく異るものなり。 仍ち讀者たる余も齡八十三歳に達し、丁度月修寺に於て本多に對面せる聰子門跡と同年にして、八十歳の本多の兄としても可なるべく、天人五衰の悲哀は身に沁みて痛感せざるを得ず、本多の心境も十分察しうる立場なりき。 但し彼の如く深夜に神宮外苑を彷徨し、アベックの癡態を覗き見するが如き行動力と旺盛なる好奇心を有せざるは遺憾なることなり。
第二卷「奔馬」に於ける主題が勳少年の日の出の巖頭上の切腹にあるは歴然たり。飯沼勳は清顯付の書生飯沼茂之の一人息子にして、優秀なる少年劍士なり。 本多は奈良の奉納試合にて勳に會ひ、三輪山の瀧の下に於てパンツ姿の少年の左脇腹に三つの竝べる小さき黒子を見る。之清顯の轉生の驗にして、正に清顯の暗示せし瀧の下での再會なり。勳の最も望むところは『日の出の斷崖の上で・・自刃すること』なりと明言せり。
著者の切腹に對する憧憬とも云ふべき關心は異常なるものにして、この頃既に數年後の市ヶ谷に於ける自身の行動を腦裡に描きをりしやと推測せらる。されば『豐饒の海』は「奔馬」迄の二巻に著者の精力の大半が集中せられ、「曉の寺」以降は輪廻轉生を續けんが故の惰性の如く感ぜらるる次第なり。即ち勳少年が『女に生まれ變りたい。 ずつと南だ。 ・・南の國の薔薇の光の中で・・』と酒に醉ひ大聲に寢言を發するを受けて、タイ王室の月光姫(ジン・ジャン)として誕生せしめたり。本の題名「曉の寺」は單にタイを象徴するのみにして、特に深き意味を持つものに非ず。ジン・ジャンは昭和十五年本多初めてタイを訪れし時童女にて、初めて彼に逢し折は我は日本人の生まれ變りと縋り付きたるも、成人して留學生として來日せる時はその記憶を喪失、平凡なる女性として放縱なる生活を送り、御殿場に建設されたる本多別邸を訪れたる際は本多の友人久松慶子とベッド上の癡態を展開し、本多夫婦はこれを隣室より覗き見して、彼女の左脇腹にそれ迄確認し得ざりし黒子を發見するに至る怪しげなる状態を現出せり。この夜本多別邸は失火により燒失し、ジン・ジャンは日を經ずして歸國せり。その後十數年を經過し、本多は或る外國大使館の宴席にて、大使夫人となりしジン・ジャンの雙子(彼女が雙子なること茲に唐突に判明せり)の姉より、彼女は庭園にてコプラに咬まれて不慮の死を遂げたるが、時に二十歳の誕生を迎へる前後なりしとの消息を得し處にてこの巻は終りたり。
第四巻「天人五衰」は左脇腹に三つの小さき黒子の竝ぶのみが類似點にて、何等輪廻轉生とは縁なき安永透なる少年を主人公とせり。されば透はその黒子を見しも、彼を養子として引き取らむとする本多に對し些かも懷かしみも親しみも感ぜず、却りて徹底的に養父を利用し自己の利益のみを計らんとする惡智慧の發達せる性格なり。彼は二十歳の成人に至るも清顯の轉生の證たる夭折の宿命にも見舞はれず、養父に對しては暴力を振ひ、豫て交際せる年上の醜女絹江を家に引入れ、更にはメイドと稱して彼好みの女中を雇ひて之を相手に放肆なる生活を送る一方、養父氣に入りの女中は追出す等、養父への虐待を繰り返せり。
遂には昭和四十九年秋、離れの前の本多の大切にする百日紅を根元から伐り倒し、憤激せる本多を逆に恫喝す。傷心の本多は之を癒す爲深夜神宮外苑を彷徨してアベックの癡態の覗き見に走り、偶々警察の取締によりて逮捕さるの醜態を晒せり。見兼ねたる本多の女友達久松慶子よりクリスマスの頃彼女の家に招かれて、清顯以來の輪廻轉生の眞相を聽かされし透は宿命の怖ろしさに初めて驚き、服毒自殺を計るも失敗、その副作用にて視力を失ひ、離れに引き籠りて外との交渉を絶ちたるも、その後透は狂女絹江と結婚し、女は腹に子を宿すに至れり。
昭和五十年夏、傘壽を迎へし本多は、京都月修寺に門跡として佛門生活を送る聰子に面會せんと旅立つ。六十年ぶりに再會する聰子門跡は松枝清顯なる人物の如何なる人なりしやと本多に問ふ。本多呆然として清顯を知らざる筈はなしと尚問ひ詰むれば、門跡平然として『本多さんがあるやうに思つてあらしゃって、實はどこにもをられなんだ、といふことではありませんか?』と答ふ。永い沈默の後門跡は本多を南の庭に案内せり。
「 庭は蝉の聲のほかは何一つ音とてなく、寂然としてゐる。 この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は來てしまったと本多は思つた。
庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる。・・・「豐饒の海」完。
昭和四十五年十一月二十五日」
とこの卷の筆は措かれたり。擱筆の日付けは三島由紀夫市ヶ谷自衞隊に於て割腹自裁せる日に合致せり。この巻は昭和四十五年五月より同五十年夏に至る三島の最後の日より未來に向ひて五年間の記録なり。三島はこの掉尾の一行の文章を書かんが爲に「天人五衰」の筆を起したるにあらずや。
題名「天人五衰」とは天人の命終らむとするや現るる五種の衰微の徴候なりとするが、この巻に於ける亂調は五衰に留るのみに非ず。前巻「曉の寺」よりやや弛緩を感ぜし文體竝びに内容は一層の衰微の徴候を示せり。蓋し彼は『楯の會』の活動とボディビル、夫れに割腹自殺に對する慾望に追はれ、本來の文學活動の心を失ひしならんか。
之平成十七年余八十三歳にして再讀せる『豐饒の海』の率直なる感想なり。嘗てはその絢爛たる文章に大いなる魅力を感じたる三島文學も今にして見れば深味に乏しく、徒に文の華美に飾られたるのみにして所詮は『何もない・・・』とは適切なる言葉なるべし。 (畢)



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