古文の辯
宇野
精一
古文には、大別して二種あり。和文調と漢文調と即ち是なり。
和文調は、案ずるに口頭言語を記録せしものに基くものなるべく、大和言葉(和語)にて綴り、文字は平假名を原則とす。されども古事記、萬葉集を嚆矢とするは、當時なほ假名の發明なかりしを以て、止むを得ざることなるべし。假名による表記としては、源氏物語、古今集に見る如く、物語或いは和歌を表記するに用ひられ、爾來、久しく後世に及び、和歌は今日においてもなほ用ふるを常とす。
漢文調は、本來江戸時代の漢文訓讀を書下したるによるものなれば、正しくは漢文訓讀調と言ふべきものなるべし。
我國の學術及び實用の言語表記は、もと漢文なりしなるべく、時代を下るに連れ、我國において造語されたる漢語、更に文脈にも我が國語の介入ありて、これを和習と稱し、正統漢文と和習漢文との二種を生ぜり。和習漢文の甚だしきものに「候文」あり。これも實は、男性候文と女性候文との別ありて、女性候文は和文脈にて候を附したるなり。
さて江戸時代には、講義、聞き書その他種々の記述文體あれども、案ずるに、漢文調といふ文體は明治以來のことなるべし。明治時代には、諸種の文體なほ殘存して使用せられたるが、次第に學術及び官廳用語或いは小説、新聞記事等に至るまで漢文調になりたるが如し。故に本來は、漢字と片假名を用ひたり。(樋口一葉の作品、森鴎外の舞姫などは例外)。然る所、明治三十五年三月、文部省の國語調査會においては、我國の國語政策に關して、例の惡名高き「文字ハ音韻文字ヲ採用スルコトトシ云々」を第一項とする四項目の方針を決定せしが、その第二項に
文章ハ言文一致體ヲ採用スルコトゝシ是ニ關スル調査ヲ爲スコト
とあり、この「言文一致」とは具體的に如何なる文體なるかは判明せざれども、多分「である」又は「であります」調の文章なるべし。
さて一般に口語(即ち言文一致)の小説は二葉亭四迷に始まるといふが定説なるが、これは右の決定より以前のことにて、それ以後は夏目漱石の諸作品は世に相當に影響ありしものなるべし。
されども新聞記事を初として雜誌論文、學術論文以下、殆ど影響なく、新聞の口語調となりしは、恐らく大正八年頃なるべし。
余は大正六年に小學校に入學せし者なるが、教科書(當時は讀本と言へり)には文語文も候文も採録せられたるを記憶す。
官廳等にては、戰前即ち昭和二十年迄は、辭令、勳記、記録、判決文等、用語はすべて文語調にて、辭令の如きは「任○○(官職名)」=例「任陸軍少尉」=、「免○○」の如く漢文的表現なりき。余は昭和二十一年九月十八日附にて東京高等師範學校教授に任命せられしが、辭令は「任文部教官敍二級」「補……教授」とありたり。その後、轉任せしが、定年退官せし時の辭令(?)は、薄紙の便箋に「職、氏名、定年に依り退職した
文部省」と、しかも横書なりけり。官廳の規則にて種々變化はありたるならむも、余は今も文部教官の官に在任するにや、更に「退職した」とは何事ぞ。せめて「退職させる」乃至「退職したことを認める」とあらざれば、辭令とは言ふべからざるなり。或いは單なる通告ならむも余は今日に至るまで釋然とせず。
案ずるに、少くとも禮式に拘はる事體に關しては、今日と雖も漢文調の文語こそ望ましく、例へば、前記の辭令、勳記、賞状、卒業證書の類は、今日の樣式にては不適當なりと信ず。外國にても、右の如きものにはラテン語を用ふるありと聞く。我國においては、高等學校にて漢文教育を充實することこそ緊急の必要ありと提唱す。