兵燹詩艸 第二部その九
                 

   兵徴發         兵の徴發   支韻
 帶甲如飄襲酒旗   帶甲 つむじのごとく酒旗を襲ふ 
 破摧略奪暴無涯   破摧 略奪 暴 かぎり無し 
 倉儲殫盡靴痕夥   倉儲き盡きて 靴痕おびただしく 
 院落歔欷一女兒   院落にきよす 一女兒
   語注  帶甲 武器を持ちし兵  酒旗 酒屋  院落 中庭  倉儲 倉に收めし物資  歔欷 すすり泣く

 作戰は糧を敵に求むるものとされ、略奪の限りを盡せりとせし戰記もありぬ。軍刑法は掠奪の罪を定め、對價を支拂ふべきとするも實情は然らず。食料も滿足に支給せず、作戰に驅出せしも此の存在を前提にせし故ならんか。
 如何に旨き物を早く手に入るるかに兵の力量問はれぬ。まづ狙ふは酒なりき。家の見當をつけて酒壺を見つけ、赤、白、無色とあるを毒味す。日本の中華料理屋にて飮ますより遙かなる絶品あり。また、アルコール度七、八十かともおぼしき、口に入れし時に火傷せしかと思ひしほど凄きにぶち當りしこともありぬ。レマルクの西部戰線異常無しにカチンスキーなる兵、名人藝とも言ふべき巧みさにて食料を都合しをりぬ。此の才能に惠まれし兵多く、至る所にて發揮されぬ。余と共に行動する中に出藍の譽の高くなりしもありぬ。
 苦勞するは食物のみにあらず。内地の如き清麗なる水は探すとも得べからず。出發時に沸かせしを水筒に詰むるも晝には必ず空となりぬ。濁りなきを求めて遠くに行く氣力の失せ、馬の飮むはよしとして田や川の水を沸かさず、二、三滴の攜帶消毒劑なる藥液を加へしのみにて口に附けぬ。
 強姦も行はれぬ。十才前後の女兒股に血を流して泣き、下半身むき出せし中年の女性の精根ともに盡果てし恰好にて横たはるも見き。近しきが死に傷つきしを見し兵の、今日限りの命てふ思ひをかく發散せんとするを抑制するは難しと謂ひしもをりぬ。


   蝨與兵隊       シラミと兵隊と   眞韻
 血路漫漫戰且逡   血路 漫漫 戰ひ 且つしりぞく 
 彈來懾聳見天眞   彈來たらば 懾聳せふしよう 天眞あらはる
 膽豪腥穢恬頤蝨   膽 豪たり せいあい てむとして蝨を やしなひ 
 不洗汗襦魯鈍人   汗襦かんじゆを洗はざる魯鈍の人 
   語注  血路 敵のかこみを開きて逃れる途  漫漫 長く遠きさま  懾聳  恐れてぞつとすること  天眞 生まれつきの本性  腥穢 汚く臭し   恬 平氣なるさま  汗襦 肌著

 中隊長軍醫に頼み、精神病として入院後送せしめ、作戰に參加せざる兵ありき。兵は重裝備にて強行軍に堪ふる體力と同時に、命令を理解して行動し得る知能を要す。徴兵檢査の際に白癡ならば兵役免除さるも、魯鈍とされし故に召集されしなり。不寢番に就けば定所に立ち得ず、隊外を徘徊して歸るを忘れ、寢小便癖ありて不寢番に何時間おきに起こせしむるの勞をば掛けゐぬ。
 かく極端ならず、馬を曳き得れば作戰に驅出されぬ。左手の肩より上がらざるあり、二桁の計算の覺束なき無筆もありき。無筆の一人は邊陬の地の極貧の家に育ち、小學校に通はざりし故なりとぞ。率土の濱にも皇化あまねしと思ひが、然あらざる民草をも驅出されし戰爭なりしか。
 また、出發から温州到著まで下著も褌も替えざるもありぬ。紛失せしにあらず、手を通せざるを荷ひゐぬ。もとより風呂に入らず、連日の行軍にて汗しとどたり。そもそも兵、殊に馬を連れしは臭きが、彼は際立ちて異臭を放ちゐぬ。ゲートルの縫目より蝨の這出づれば、裸にせしに下著の縫目にぴつしりと卵を産みつけられゐぬ。温州にて中隊全員の著衣の煮沸消毒となりしは、彼の飼育せしを蔓延せしめし所爲ならんか。尤も動作は緩慢なるも、彈雨の中よく馬を御して逃隱れするが如きことなかりき。              


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