兵燹詩艸
第二部その五
月下吟 月下の吟 陽韻
陣陣邊風柵壘傍 陣陣たる 邊風 柵壘のかたはら
吹笳縷縷轉凄涼
吹
すい
笳
か
縷縷
るる
として
轉
うたた
凄涼
信書一片月明展 信書 一片 月明にのぶ
此夜羸兵切望郷 此の夜
羸兵
るいへい
切に望郷
語注 陣陣 連なり續き、時々途切れるさま 柵壘 とりで 邊風 國境近くを吹く風 吹笳 蘆笛を吹く 縷縷 細く長く續くさま 羸兵 疲れし兵
省都福州を占領せるも、海岸と閩江下流の河岸を押へしのみ。福州北方に米式裝備の國府正規軍三ヶ師團ありて交戰しばなりき。また、海賊の來襲もあれば閩江河岸の要所にも兵力を分遣せり。
洋嶼に殘りしは、偶その時に病人たりしため軍隊語にいふ員數外とされしなり。分遣隊への應援に驅り出さるることもありて、福州郊外の温泉にて靜養てふ兵隊には希有なる樂しみも味はひぬ。また、宣撫のためしばしば村落にも赴きしが、小村にも素封家ありて、科擧試驗合格を示す尚文の額の掲げありぬ。
蠟燭乏しく、暗闇にては會話も興薄し。勤務なき日は早早に寢ねぬ。月明は屋外にて談論風發となりしが、月光のかく明るきを初めて知りぬ。また、ハーモニカを攜帶せし兵ありて吹奏に併せて歌ふこと多し。あまた歌謠曲あるうち、霧島昇の「誰か故郷を思はざる」ほど兵の心情に訴ふるはあらじ。歌ひ、かつ聞き、余らをしてそぞろ望郷の念に堪へ難からしめたり。 慰安の施設なければ樂しみは手紙のみ。伏見にては入隊の挨拶狀のみなりしも、野戰に赴けば便りするやう慫慂されぬ。また、月に何枚か郵送料無料の軍事郵便葉書も交付されしが、福州まで續きしは弟のほかは利根川兄と壽美女のみ。壽美女は内地の香と異性の懷しさを運びくれ、生きて歸りたき氣持にもつながりぬ。戀愛感情なく、姉妹なき男と兄弟なき女てふ境遇にて氣が合ひしならんか。尤も、伏見にて受取りし壽美女の手紙、女名前故に曹長の面前にて讀上げさせられぬ。末尾に女人からの手紙は上級者の前にて讀ませらるると聞きしが、然あらじやとありて失笑を買ふこともありき。
砲陣地完成 砲陣地の完成 先韻
隧道縱横山腹穿
隧道
すいだう
は 縱横に 山腹を
穿
うがち
狙濱砲座水泥堅 濱を狙ふ 砲座 水泥堅し
敵來撃盡一千發 敵來たらば 撃ち
盡
つく
す 一千發
我死何時又奈邊 我死するは いづれの時 また
いづれの邊ぞ
語注 隧道 トンネル 水泥 コンクリート
何人に聞きしや、余らの間にて話合はれし作戰の要領次の如し。敵は艦砲射撃と空爆にて水際陣地を潰せし後、戰車上陸して海岸に橋頭堡を築く。水際に於ける抵抗は犧牲を大きくするのみ。されば蛸壺陣地のみ掘り、決死隊員隱れゐて戰車の通過を待つ。死角内から飛出で、我身もろとも吸著地雷を押しつけて破壞す。全員戰死するも、殊勳甲なれば金鵄勳章授與せらるべし。その後は山腹陣地に於ける戰鬪に全力を盡す。千發の彈丸を撃盡さば系統的作戰は終らん。後方陣地に移りて大隊長は腹を切るも、兵は最後まで抵抗を續け、神州の不滅を信じて悠久の大義に生くべし。
連日、陣地構築に出掛けぬ。山の中腹の中樞陣地は、死所なればとて頑丈に仕上げたり。砲座の天井は鐵筋コンクリートにて固め、數組の松丸太を井桁に組みて厚く土を被せたれば三噸爆彈に耐ふるを得とぞ。
旅團長の哲學は今汗を流せ、然らば後に流す血の量減るべしとなり。大隊長、中隊長も閣下に倣ひて同じ訓示を繰返しぬ。兵は岩盤にあけし穴にダイナマイトを詰めて發破を掛け、ゆるみし岩石を鶴嘴とスコップにて取除き、もつこにて捨つるてふ作業に從事しき。最も時間を要せし穴あけも、チスを岩盤に當て金槌にて叩く原始的方法なりき。設計圖も、工法に就きての教育も無かりしが、函館鐵道局トンネル技師たりし上等兵が外から眺め、或ひは地層の具合を勘案しつつ掘進角度を決めぬ。三ヶ月後、五百メートルも離れゐし地點から堀進せる二つの通路の見事に繋がりしは彼の功績ならん。
▼「詩藻樓」表紙へ戻 る
▼「文語の苑」表紙へ戻る