兵燹詩艸 第二部その四
東西に別れ
船尾跳魚一瞬晶 船尾の跳魚 一瞬のひかり
語注 旭旗 日章旗 虜營 夷の陣營 漫漫 長く廣きさま 風帆 風を受けし舟 欸乃 舟歌
大隊本部は洋嶼に置かれしも、大隊長は陣地構築のため兵員の大半を率ゐて海岸近くに移りぬ。洋嶼に殘りし下士官兵は、大隊副官の指揮の下に周邊の警備、司令部との連絡などに當たりぬ。
余はマラリアのため洋嶼に殘り、隔日毎に裏山に登りて警戒に任じぬ。閩江沿ひに平地開け、單調の中にも季節の變移も見られぬ。亞熱帶なれば田によりて生育の度合の異り、刈取中と出穗せしばかりが竝びゐぬ。また、潮に從ひし船の同方向に進み、潮の止まりし時刻に漁船の網を下すも見き。
余が中隊の兵舍にせしは町の有力者の邸宅なりき。主人は明治末期に日本に留學し、法政大學の前身に學びしとぞ。書庫には帙入りの四書全書を始め、多くの漢籍ありて讀書の樂しみをば得たり。また、法政大學にて使ひしならん。日本の法律書も收藏されゐたり。背革に金文字にて民法釋義 法學博士 梅謙次郎とありて、余が使ひし布張りのレーアブッフにはなき風格ありき。
その後長樂なる縣政府の所在地に移り、小學校を兵舍として砲陣地構築に從事せり。校舍の中には孔子の木像置かれ、また、講堂らしき建物に孫文の總理委囑が當時の日本の學校に於ける御眞影然として掲げられたり。分隊毎に割當られし教室にて起居せしが、殘りゐし教科書を開けば、九一八に始まる日本の侵略を彈劾して敵愾心を鼓舞しをりぬ。
余らは知らざりしも、比島戰線にて日本の速射砲の米M4戰車に齒立たずてふ情報のありしか。翌年に初年兵を迎へしものの、ひと月も經ざるに速射砲大隊は解散となりぬ。大隊長は上海の軍司令部附、中隊長以下は分かれて、砲を手土産に操の各獨立歩兵大隊に轉屬となりぬ。
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