兵燹詩艸 第二部その二 赴異國有感 異國に赴きて感有り 陽韻 征兵遙在異邦彊 征兵 はるかにあり 異邦のはてに 漠漠蕭條野色荒 漠漠 蕭條 野色すさぶ 湯盒泥沈食通痢 湯盒に 泥沈み 食は痢に通づ 堪思水淨我家郷 思ふに堪へたり 水 淨き 我が家郷 語注 漠漠 廣く果てなきさま 蕭條 もの寂しき さま 野色 周邊の風景 湯盒 湯飮み 余らの聯隊の兵力の大半は既に出發しをりぬ。船便を待つ間、ビルマの暑さに耐ふべく食事時以外は水を飮まざるなどの訓練を重ねぬ。伏見の如き演習場の無ければ、田や畑を戰場として砲を牽きて驅囘りぬ。 外地なれば慰安の場所も近くにあらんと思ひしに、周邊に人家なく、そを求めんには汽車にて上海か江灣まで赴く要あり。其所なる慰安所に行かば、疊の上にて坐臥する樂しみ得らるるとか。一方、兵站宿舍の食事極めて惡く、ばさばさの外米にまづき肉、魚、時には味噌のみてふこともありぬ。唯、同年兵のみなれば風通しよく、皆、太き態度にて莨を吹かしゐぬ。 新聞には黄河揚子江下流一帶の中國中樞部全域を占領せりとありぬ。實情は都市と鐵道線路てふ點と線を抑へしのみ。そと知り得しは到著して數日後、祭五十一聯隊の兵一名拉致せらるるの情報あればなり。初年兵に草刈作業を任せて車の下に寢ねゐし古兵、袋に詰められて泣叫びつつ運ばれしとぞ。上海を僅かに離れなば敵地區にて、かかる事の珍しからざるを聞き、大陸の廣さと此の戰爭に終止符を打つの難しさを悟りぬ。 日本人を狙ふテロあれば、外出はグループ行動と決まりをりぬ。また、飮食、映畫、演劇もそれぞれ指定され、然らざる場所は立入禁止とせられぬ。余はアイスクリームを食ぶべく、同嗜好の二人を誘ひたり。日本人居留地なる北四川路を歩き、ガーデンブリッジと橋畔のブロードウエイマンションを眺めぬ。橋上にて交通整理しあるインド人巡査の手振に感心し、異國に來してふ感慨を催しぬ。その後は雰圍氣を樂しむべく、森永喫茶にて戰時統制下の日本にては味はひ得ざるクリームパッフェ、ショートケーキなどを賞味せり。 病於異郷 異郷に病む 灰韻 垂死釁圊三百囘 死になんなんとして 冥乎宙母泛如傀 冥なるか 宙に母 うかびて もののけの如し 甦醒窓外半黄落 甦醒すれば 窓外 なかば黄落 葉盡我生倶熄哉 葉 盡きなば我が生 倶にきゆるや 語注 幹部候補生試驗の數日前に下痢に襲はれぬ。從來經驗せし腹下し程度にあらず、一日の便通は百囘もありしか。便所を出で、手を洗はんとせばまた催す激しきものなりき。入院と決まりしもトラック便なし。醫務室の蚊帳に入るを拒まれ、倉庫に寢ねしも、喉の乾くままに其所にありしサイダー瓶を割りぬ。飮めば忽ち便意を催し、遂に歩行困難となりしほど消耗せり。 定員五名の小部屋に收容されしが、菌見つかりてアミーバ赤痢てふ病名も決まりぬ。便器を寢臺の側に置きしが、鼻汁に莓ジャム混じりし如き粘血便にて、囘數も數へ切れざるほどなりき。熱ありて記憶の定かならざること多く、阿母天井より降來たりて宙を舞ひ、また、看護婦をお母さんと呼びしこともありしとや。連日リンゲル注射續き、疊針ほどの注射針を兩腿に突き刺されぬ。 血便やみて食事も重湯より粥に換りぬ。起上るが苦しく、僅かに天井を眺め、窓越しに外を見るのみ。入院時は青々とせし筈の樹木も黄ばみ、葉もまた殘り少なくなりをりぬ。Oヘンリーの最後の一葉ならずとも、葉の盡きなば余の生命も消ゆるにあらずやと心細かりき。この感慨を次の短歌に託しぬ。 窓に見ゆ大いなる樹の一日ごと 葉の散り行くに命し思ほゆ從軍中に作りて今も記憶にあるはこれ一首のみ。 ▼「詩藻樓」表紙へ戻 る ▼「文語の苑」表紙へ戻る |