兵燹詩艸抄 五 跋
                 

   文語文との關り(自己紹介に代ふ)
  生年月日  大正九年九月十二日 (八十九歳)

 三年の國語讀本に文語詩が載り、國史教科書が文語文たりし時代に小學校教育を受けぬ。文語詩は鎌倉などの七五調のほか,鳴門の七七調、日光の八七調とリズムの快く、八十年後も腦裏に刻まれをり。また、六年の時に文語作文を提出せしに、先生は生活綴り方運動の信奉者なりしか、見聞せざるは不可として自信喪失せしめぬ。
 中學校は國語三時間、漢文二時間の授業なりしが、中也、道造の口語詩はあらはれず、現代文も山路愛山、大町桂月らの文語文が主流なりき。また、方丈記、日本外史などを副讀本とせり。高校受驗のため英數國漢に力を入れ、徒然草、玉勝間、十八史略をば讀み通しぬ。
 大學豫科の國漢は(當時の)平均的教科書なりし萬葉集、孟子などを習ひしが、經濟學概要に太宰純の經濟録、東洋史に春秋左氏傳を教科書として使ひしかば、今の大學生よりは文語文に馴染みたりと謂ふべし。
 兵役三年の後に大學に戻り、卒業後は檢察廳に職を得しが、當用漢字、現代仮名遣の導入されし時代にて、起訴状の表現の何日頃は「ころ」、共謀の上は「うえ」などと修正されつつ、文學者に惡文の代表と評さるる文案を練りて三十年ばかり過ごしぬ。その間に大審院判例をひもとき、文章の格調の高さに感服せしことしばしばなり。現在は法律書の悉くを處分し、漢詩と俳句作りを樂しみをり。


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