兵燹詩艸抄 四
                 

   窓前懷友        窓前懷友             歌韻 
   嘗朋餞我別杯歌     かつてとも 我にはなむけす 別杯の歌  
   唱片今聽思轉多     唱片 今聽けば 思 うたた 多し
   戰旅僅娯君信息     戰旅 僅かに娯しむ 君が信息を
   歸還憂識臥沈痾     歸還し 憂ひ識る 沈痾に臥せるを 
      語注  唱片 レコード   信息 便り   沈痾 重病
思ひ多ければ轉結の二句のみにては詩意盡さず。律詩は難しければ更に一首を詠まん。前の句に夾みて古體詩として纏むることをも考へて歌韻にせり。
   不謂離愁生死事     いはず 離愁 生死の事 
   擧觴月影碎婆娑     さかづきを擧ぐれば 月影 碎けて婆娑たり 
   我行瘴雌荒界     我が行くは 瘴氏@南荒のあたり   
   相隔參商可奈何     あひ隔つる 參商 いかんすべき
    語注 離愁 別れの淋しさ 婆娑 影などの搖れるさま 瘴氏@熱病 
      南荒界 南の果ての未開地 參商 オリオン座の三つ星と蠍座の
      アンタレス。二つ見る能はざる位置關係にあり、遠く隔つる状態

  檢閲終了後は野戰行きの噂ありしも、癲癇兵と共に脚の捻挫にて就寢練兵休の余も免るべしと聞きたり。第十五(祭)師團歩兵第六十聯隊に轉屬と決まりしが、いろは順の轉屬者名簿の末尾に余の名前もありぬ。就寢練兵休の余が入り、人事掛なる傳兵衞曹長の補助たりし池上の免れしは頷き難し。
 京都勤務の時、この傳兵衞の調べ室前に待たさるるを見ぬ。呼びて野戰にやられし理由を質せしが、余はもとより池上の名すら覺えなしとぞ。何かと辯解を繰り返しゐしが、その筆先にて生死を左右せられしこそいまいましけれ。
 祭要員は外泊を許され、衞兵司令に外泊證を示して營門を出でぬ。畏友利根川兄の家は隊の近くなれば、母堂に外泊のことを傳へて來宅を請ひぬ。兄は一歳年長、從軍中は余が家族より多く便りをよこせり。讀書感を同封せし書籍も送りくれ、軍隊てふ閉鎖社會にゐながら知性に觸れて息を繼ぐを得ぬ。
 別離とても獨身の氣安さなるか。何をせしや、また家人の如何にしゐしやを覺えず。唯、利根川兄と共に一升瓶を空け、終電車まで話しこみしことのみ判然としゐぬ。野戰行きに氣負ひしや、個人の死と國家の存在に就いての未熟なる意見を披露せし記憶あり。兄は大木淳夫の戰友別杯の歌を低唱せしが、當時の最も格調高き詩といふべし。しみじみと心に浸み、陣中にても當夜の思ひ出を嚙 み締めしことしばしばなりき。
   言ふなかれ、君よ、わかれを、世の常を、また生き死にを
   うなばらのはるけき果てに  今や、はた何をか言はん、
   熱き血を捧ぐる者の  大いなる胸を叩けよ、
   滿月を杯にくだきて  暫し、 ただ醉ひて勢へよ
   我が征くはバタビアの街、君はよくパンドンを突け、
   この夕べ相離るとも かがやかし南十字を いつの夜か、また共に見ん
   言ふなかれ、君よ、わかれを、
   見よ、空と水うつところ  默々と雲は行き雲はゆけるを
 利根川兄の去りし後、生きし證の殘したき氣持の耐へ難かりき。また、余の戰死を悲しみて獨身を續くるほどにはあらずとも、涙の三、四滴を零す異性もがなと思ひぬ。この戰爭は何百萬の母親を泣かせしが、姉妹の外に戰死者のため涙まで流せし若き女性の幾人かあらん。
 戰死に泣かざるべしと思へど、何となう氣になりしはみつ女なりき。美形にあらざるも、兵となりて社會から隔離せられ、女性を見ざる生活が續きぬ。消燈ラッパを聞く度、別宴とて圓山公園に遊びしをりの好ましかりし會話の端々を思ひ起こしぬ。野戰に行くには心の整理こそ必要なれ。遺骨と共に納めまほしき書籍を取り分けて彼女の寫眞をばはさみぬ。手紙を出さざるままにては死に切れざる懸念あるべし。檢閲の心配なければ戀文めきし一文を書き上げぬ。
 返書は余が入院中に屆きしが、結婚の決まりし次第を告げ、豪快沈著にしてユーモラスてふ人物像を認めをりぬ。好意を持ち得べき男の如く、二人してみつ女の酌にて飮むもよし、またかかる人物と出會ひを祝福せんと思ひしが、未ださする手紙を送るてふ男の美學を知らざりき。
 南方に渡ると聞きしかば歸營の時は氣が重かりき。生を受けて二十二年、一片の孝養らしきことなく先立つ不孝を思ひぬ。儒教は夭折を最大の親不孝とせしが、國家は余を家族から引き離して命を賭くることを強ひぬ。尤も喜び勇みしにはあらねど、嫌々ながらにはあらざりき。國民の義務てふ自覺ありて、國のために死ぬるもまたよしと觀念しをりぬ。

   送花          花を送る             陽韻
  清明櫻下共傾觴      清明 櫻下 共にさかづきをかたむく    
  低誦驪駒紅雨忙      驪駒を低誦すれば 紅雨忙たり 
  逸興欲殫歎厥短      逸興つきんと欲して その短きを歎く
  何時再會又尋芳      いづれの時ぞ 再會し またはなを尋ぬるは
      語注  清明 春分の十五日後の日  驪駒  別れの歌
       紅雨忙  慌ただしく花の散るさま  逸興  風流な遊び


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