兵燹詩艸抄 一
                 

  八十の手習とて漢詩造りを肇めぬ。詩題は花鳥風月が多かりしが、月下吟の題にて軍隊生活の一場面を詠ぜしところ涼州詞の趣ありてふ過稱を得、やや馴れたるかと力を得て生涯最大の非日常たりし三年間の軍隊生活をば詠みぬ。師匠の朱筆にて一應の體をなせしかと思ひ、戰爭を知らざる人も理解し得るやう軍暦などをも加へて兵燹詩艸なる小册子に纏めぬ。香典返しにと思ひをりしに、その機會の訪れざるうちに辱友に請はるるままその目を汚しゐぬ。  
 文語の苑に石川岳堂先生の禹域遊吟百首を載せらる。また、清水浩氏の大東亞戰爭列傳には草莽列傳の加はる豫定らしきも、いまだ將帥の總べてすら盡さざるが如く思はる。さらば一草莽の戰爭體驗詩もその一隅に收めまほし。詩の外は冗長なる口語文なりせば、文語體に改め、詩意と軍隊に於ける余の行動を理解し得る限度まで斧鉞を加へぬ。
 京都にて訓練に明け暮れし練兵百日八首、上海の兵站宿舍にてビルマへの船便を待機中に罹患し、退院後は中國各地を轉轉せしも、その間の最大作戰たりし福州攻略戰とそこよりの撤退などを詠みし砲煙彈雨二十首、終戰後の捕虜閑日十一首を數ふ。


   憶竹馬之友某      竹馬の友某を憶ふ        庚韻
  元英文事選兵黌    もとより 文事にひいづるも兵黌をえらぶ
  螢雪幾何君稟更    螢雪 いくばくか 君の稟のあらたまりしぞ
  艦沒漂洋悔毋歟    艦沒し 洋を漂ひて悔なかりしか
  殘碑一柱寂無聲    殘碑一柱 寂として聲なし
    語注  兵黌  海軍兵學校  螢雪  勉學  稟  生まれつき


 余が小學校同級生の多くは京都第十六師團福知山歩兵第二十聯隊に入れり。此の聯隊は開戰當初、比島作戰に從事してバターン半島にて二ヶ大隊全滅てふ犧牲を強ひられ、戰爭末期にはレイテ島に移りて一兵も殘さず全滅せり。戰死の
況わからず、遺骨代はりの名札の入りし白木の箱を交付せられしが多し。また、中學校の同級生中、軍學校に進みしは海軍二名、陸軍三名を數ふるも、教師より志願するやう慫慂せられしことなし。
 兵學校に進みし某は小學四年の時、雪積もりし運動場を裸足にて一周させられし五十數名の同級生中、唯一人足冷たしと泣きし弱蟲なりき。將校たりとて苦勞せしならんも、その揚句に戰死とは引き合はざる人生と言ふべし。學資不要の進路を選びし結果にして、また、男子の全て兵隊たるべき時代なりしとも、死ぬる前に己の選擇に悔い殘らざりしや。外になしたきこと、なりたき者のなかりしかと思ふ。
 妹は蕗谷虹兒の繪に似し美少女なりせば、義弟にならまほしと思ひしこともありき。二人の自轉車の衝突せんとせしことありて口をききしが、從妹にあらざる制服の女學生と喋りしはこれ一囘のみなり。母親は未亡人にして小學校の裁縫教師を務めゐしが、阿母の放り置きしセーターの綻びを繕ひくれし優しき人なりき。余が京都の檢察廳勤務の時、未亡人會の組織的選擧違反ありて舞鶴未亡人會長を調べぬ。役員名簿にをばさんの名前を見出せしも、會長の話によれば幼稚園教諭たりし妹も死に、出來よき子供に先立たれし不幸を歎きゐるとぞ。


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