の韻
─碧巖窟
神護山淨牧禪院(都下東久留米市)は室町時代より續く曹洞宗の寺院なり。此が古刹の御開山は
崇芝性岱大和尚なりて、昭和、平成は藤井猷孝師が嗣がせ給ふ都下に風格をなす禪院なり。
御開山堂への御廊下の脇に常に合掌せる竪穴あり。坐禪窟と傳へ給ふ。
歩みゆくに郭公が鳴き境内の樹々を見上ぐれば絹雲棚引き、孟宗竹の葉のさえぎを聞くに
宗祖道元禪師が嗣書を受けさせ給ひし中國の天童寺を懷古させ滲々と竹の風を聞く日なり。
淨牧禪院は塵一つとて無く、磨き拔かれし靜寂と峻嚴の堂より鶺鴒が尾を打ちて大空をかすめゆくを目にせり。
書院にて、方丈樣の多たの書籍拜見の最中、『碧巖大空鈔』を廣げ給はれし御時、そこに『』の文字を見出したりき。廓念無聖の刹那の教へにこの折ばかりは呆然とせり。
かつて、道元禪師の『一夜碧巖』を拜觀すべく能登の大乘寺へ旅することありき。なれど、その日拜すること叶はで、その「茶色の布表紙の、綿々とした文字を書き記さる」と聞く册子を空に思ひ描くばかりなりき。道元禪師の中國よりもたらされし『佛果碧巖破關撃節』と『椶櫚拂子』は、大乘寺は至寶となして、今に貴重に重襲させ給ふと知りぬ。
そが御本に忠實に表紙の布のしみやそこなはれたるところまで寫し、覆刻されたる册子を有難く見せ給ふに、御時、淨牧禪院の御寶物に『碧巖大空鈔』といふものゝありし事知りにき。
『碧巖大空鈔』は大空和尚の、淨牧禪院碧巖坐禪窟中に於かれ抄擇され給ひし文化財なり。
大空玄虎(一四一八〜一五〇五)和尚は、出世は諸説あり定かでならずも、曹洞宗高祖道元禪師より八世孫にておはしますとて、二十四歳で崇芝大和尚に參見、師事され給ふ。御開山の崇芝性岱(一四一四〜一四九六)は淨牧禪院二世として大空和尚に師席を嗣がせ給ふなり。
それ以前に性岱大和尚は、龍門山石雲院(靜岡縣)を開山され、玄虎和尚を藏主職(圖書職)に當てさせ給ひき。その折の研鑽の御日々に『碧巖大空鈔』はすでに興されしか、と參學せり(淨牧禪院聯燈録他)。
『碧巖大空鈔』は「土窟鈔」「穴抄」等と稱せられ、碧巖窟で坐看工夫し、「最後の仕上げをなしたり」と鏡島元隆師の御研究書に見ゆ。
『碧巖大空鈔』は上卷十四丁、下卷六十三丁あり美濃紙大袋綴で題名はおはさで、大空和尚は、武藏國の人なりしに、「中央語」(京都をいふ)を以て、宣命書きに記し識者、又參究者に向けられ抄譯なさり、示衆させ給ふことを思はする」(木村晟)との御研究あらせ給ふ。
淨牧禪院の碧巖窟で「只管打坐」の行(ひたすら坐禪をなさる事)と、「鈔」を遺されたる玄虎和尚の純白の法手を直立にかゝげおはします面貌髣髴と甦りて貴き思ひしきりなり。
新築の禪院の一室にてはからづも願ひの適ふ機なりて、青葉風の中、大空玄虎和尚につき少し學ぶこと希ひたりき。
欅の大樹、大銀杏、沙羅双樹、松、あまたの樹々に守られし御開山堂の初祖、二祖の、彩色なされし御影も青さにつゝまれておはしましけり。
樫の木の側らにありて、必ず歩を止め、耳を傾けさせ、、無韻の音を殷々と奏し來たりしその「窟」は、今や半分泥に埋もれてありにけり。などてか、奇しくも雨水も溜めぬといふ「不思議」は寺の成立に缺かせぬ傳承なり。武藏野の關東ローム層とふ地層なりしに繁き大雨なりとも、ここに雨滴を殘さぬといひ傳はれり。『碧巖録三五則』の「前三三後三三」の金剛窟(こむがうくつ)と何の異なるところあらんや。「水も灑ぎ込めず、俗風も吹き入れで、文珠菩薩の住(す)みたまふ清涼山に熱のあつさ、寒風の冷も聞く事なしに、金剛寶劍の如く」今に傳はりし碧巖窟にぞあり給ふ。
まいて『碧巖大空鈔』に『』なる文字の使はれてありし事大いに驚きたり。
『』は、かねてより、『の韻展』と主題をつけ、又自著にても册子等にても使ひつゞけ來しなり。『五輪の書』(宮本武藏の口傳書)に使はれしと『覓偉攷』(松延市次)にて知りてより、その魅力を味はひ來りしが、ここに於て、大空和尚の御生存中の寫本とて貴き袋綴の册子との出會ひのうちなる發見にてありけり。
これなる『』の旁「新しく生まるるの意もあり、「出發前の歩み出す形」(白川
靜)止と同樣の太陽の光を受けて芒々と草の生まるる前のひそやかなる意として、大らかにはるかに遠深なる、禪に云ふゆるやかに大いなる明珠の中にめぐる空間として、この文字貴く心に刻めり。
明治四十五年の新釋漢和辭典には載れる「」、『今昔文字鏡』(古家時雄による漢字十萬餘字を集録せるソフトウエア)には異體字として收録せられあり。
宮本武藏は如何なる意にて、この文字使ひ給ふやと思ふに、五輪の書に宮本武藏の口傳を書き記されし細川家の祐筆の士は「」を繁く使ひける。武家宗教の認識ありとふ禪學に影響を受け居られし御事は、これらが九州の曹洞宗靈巖寺の岩窟にて書かれし事により自づと肯んぜらるゝとはいふも更なり。武藏の師、澤庵は大徳寺の住持に推され給ふ程の禪者にておはしましたればなり
淨牧禪院に學びたるに、道元禪師の正法眼藏のテーマ「都機」「明珠」に參學の、高祖の御思考を築かせ給ふ御心に添ひ、その高き風韻を味はひけるに、懇切に説かれし周圍が御心そのものとなりて、見ゆる筈の無きものの中に在る事あり。大らかなる「
」の中に居りなむとてその思ひ強かりて、文字との邂逅が、最も身近にして遙けく遠き「」の奧よりひとすぢの眞直なる出會ひの中に在りとふ深き思ひにひとへに温く安らぎにけり。
平成七年、新築なりし大書院の禪院茶室を見させ給ひし御時、「深紅の蛙、池に泳げり」とて庭にさやぐ人々の聲あり。方丈樣が窓を開け、掌に受けさせ給ふ蛙、冬といふに、大いに元氣なり。緋鯉とまがふ鮮やかさ
腹の文樣は黄色に淡き茶の龜甲紋をぼかしになし、片手に載する程の大きさなめり。驚きの中、蛙は、年間を通じ温度の變らぬ武藏野の滾々と湧く地下水の池に再び放たれしが、「奇しき事なり。その後誰も、かの蛙を見る者なく、連日清掃の行をなすも、二度と逢ふ事なし。」と堂守樣、首をかしげ、のたまひにけり。
されば、かの一を夢の如く現れ、立ちどころに消えしか、のゆるやかなる日々に美しき點彩をなす異しき事實にあんめり。
平成十七年、樫の木が新緑を廣げ青嵐に吹かれてありき。
「碧巖窟」は只管打坐の陽炎を燦々と立て居りき。あまたの感動を含め、今しも大空玄虎和尚の御遠忌(五百年)を側らの樫大樹は無窮不變、凜々と五十秩の間、光を添へて在しけり
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