時の韻(ひびき) ─寶慶寺[ホウキヤウジ] 大本山永平寺の老杉季夏の雨滴に包まれ、名刹の重厚さをいよよ高めをるに、ふと見れば、そが根もとに青苔が、艶麗に、鮮やかに生ひなり、相呼應の境地を了然と際だたせゐたり。この日の夜深けにかけての寫經こそ清しかりけれ。明日は、寶慶寺にいます「月見の像」(道元禪師頂相)の拝観、適ふやいなや。しかおぼす所以は、梅花開睛の御事を學び來たればなり。 寶慶寺を開山せる寂圓禪師(一二〇六〜一二九九)禪師は、中國天童寺の如浄禪師に參學され、その折に出逢はれたる道元禪師を慕ひて日本に渡來、永平寺承陽庵の塔主となり、後、寶慶寺を開創されたるものなり。寺には寂圓禪師の御遺品「月見の像」の他に、「名越白衣舎示誡[なこえびやくえしやのじかい]」.、傳寂圓禪師將來とされる「如浄禪師像」等、寺寶として遺れり。「月見の像」は、江戸時代の面山瑞方禪師、道元禅師を迫慕され、法の姿そのままに名付けられたるものなり。そが道元禪師の御影[みえ]、從來の頂相(ちんぞう)の形式とは少し異なるものなり。今日遺る多くの僧侶の肖像画、肖像彫刻を拝するに、曲[きよくろく・椅子]に坐し、手に竹箆[しつぺい]、あるいは法子[ほつす]を持ちたる御姿の多き中に、道元禪師が御影は、「定印」を紬ばれ、黒衣なり。御椅子は、質朴の御意,志に添へる形にて、いかにも曹洞の禪風を傳へむとする形と見ゆ。古來、「鏡の御像」と云はれたりと聞くそが御影は、正法限蔵の「古鏡」の文節を、鮮明に蘇らせるものなりき。鎌倉時代の寫實主義隆盛の中にありて特殊なるこの御影は、心理面におきての理解之教訓をうながせる像にてもあり。 永平寺に繼がれたるみ教へは、今日も、.禪師の語録、選述にのつとりて、厳しく、行として遂行せられ、御文節そのままに、受けいれられをり。正傳の厳修されをる事實にかんがみ、頂相も道元禪師の御意志.を以て遺されたるものにて、正法眼蔵の尊いみ教への一節になりきりたるものならむと思はれたり。さればその御影に、月の皓々たる緩やかなる御佛の廣がりを誰しも觀てこられたるものならむ。 繪に賛在り、六句の識語より成る。 氣宇爽清山老秋 天井皓月浮* 一無嵜六不収、 任騰騰粥足飯足 活々正尾正頭 天上天下雲自水由 *「無門關」に井の驢をるが如しとあり) 建長己酉月圓日越州吉田郡吉田祥山 永平寺開闢 沙門希玄自賛(希玄は道元) と書かれをり。 『福井寶慶寺「月見の像」と道元の筆跡』(岩井孝樹)に依れば、 (一)繪の賛は、道元の自筆 (二)建長己酉(一二四九年)の歳、道元五十歳の壽像(生前像) (三)道元の意向をうけ、像が賛文の内客と契合する.面貌であろう事。 直かに御鑑識のみ教へを賜れば、「江戸時代の面貌への加筆認めらる」とは學びたるが、賛は紛る方なく道元禪師が御自筆にてあり。 この夜、大本山永平寺の若き雲水様、坐禅の形をわれらに見せられたり。繼がれ來たりたる美しき禪定の御姿は、いづれの僧も親指を輕く觸れ重ねての跏趺坐にて、さらに顎を引き、半眼を空に向けたり。かかる禪定の結果につきて、道元禪師の温慈の筆は、さまざまに、正法眼蔵に書き記されたり。「佛祖を仰観すれば、一佛祖なり」『正法眼蔵(渓声山色)』 ▼「文藝襍記」表紙へ戻る ▼「詩藻樓」表紙へ戻る |