たそがれ百景


   十五

 ある人ゆゑありて四十半ばにして夫と別れ、とかくの苦勞してかなしきひとり子を掌中の玉とかき撫で磨き上げてやうやう人となし立つるに、我が良き遺伝子のみ受け繼げる娘と見えて、かの大酒飲みのろくでなしにつゆ覺えたるところなく、咲きこぼれたる初花の、見る者ゑます兩の笑靨聞く者ゑはす鈴の声音に、立ち居振舞ひさへ優しかりければ、近頃珍しき大和撫子と遠き噂聞きつけ縁談引きも切らずあれど、あはれ男見る目なきも我譲りか、バイト先の先輩とて腰パン長髪の男とうちつけに交際始め、二年三年經ても飽くべき様子なきを、今に目覺ますべし容姿人品一つとて釣り合はず、あたら花の盛りをと気を揉みつつも、今や別るる今や別るるとひた待ち過ぐすほどに、ひと日デートの歸りとてうち揃ひて立ち寄りてける、かかる夜更けに人の都合も確かめず、珍しきことにはあらねど手土産一つ持たずしてと思ふ思ふ、追ひ返すべきにもあらねば寝巻きにカーディガン引きかけて居間に通すに、若き人は恥づかしげもなく親の前にて手繋ぎ頬寄せそれだにもめざましきを、例のぼんくら男の挨拶そこそこ言ふことは、我ら學生時分より付き合ひて五年、ここらの年頃あひ思ふ心の變はらねば、今日なむこの先の契りかたらひ固め侍りつる、さるは近々新居探して見つかり次第に結婚てふけじめつけ侍るべし、その式場は何處其處招待客は誰其れと、いと心地よげにペラペラと、いかにも輕げなる舌先休めずまくし立つるをやうやう遮りて、何の戯れ言世迷ひ言、親に諮りもせず許しも得ずさる人生の一大事、己れらのみにて采配すべきことかとよ、かくあれかしとむらぎも盡くして育てたる娘にもあらぬを、今日といふ今日は我慢の限界、この母取るか禮儀常識知らずの馬鹿男取るかよくよく思ひ比べみよ、この年頃うつけの菌に染まりたりといへさばかりの分別は殘りたるべし、いざいざと迫るに娘はただただ狼狽へて、かつて見ざりし母の形相劍幕に咄嗟に返す言葉もなかんめり。
 さは言へど芙蓉にも似たるかんばせの、涙の雨に暮れてうち萎れゆくを見るも胸痛く、隣の馬鹿づらはうれたけれど、これもさきの世の契りとかや、ともあれみづからの心には生涯の伴侶と思ひ定めてかく引き合はせけむを、外見釣り合はずと引き切りに斷ずべきことかはと、日の經るごとに猛き心の思ひ弱りゆくも心の闇の親心、まんまと舌先男の計略に嵌まりて一年後は高砂やの席の人、両家親戚の面々にお酌し回りたる、これぞ我が一生の不覺とは後に骨身に知りて思ひ知られけり。
 さてもはかなきは人の世、かかる縁組許ししもただ娘の幸ひ願へばこそ、片親なくて育てたれば増して楽しく愉快に過ぐせかしと、嫁ぎしかた拝みて祈らぬ日のなかりしを、うち続く出産育児に繊弱なる身の敢へずして、末の子の歯もいまだ生え揃はぬに、佳人薄命の言葉の如く、草葉にかかる朝露の玉の緒絶えて、我には逆縁の憂き目見せける、老少不定の世の中と言ひながら、いかがは悲しかりき。
 割り増し賃金あればと早出遅出の仕事掛け持ち、三Kと人の嫌がるパート稼ぎに精出だししも誰ゆゑか、シングルマザーと指差されつつ齒を食ひしばりて日錢を稼ぎ、役所の世話にもならざりし、其れも此れもおまへの行く末見届けて、我が轍踏ませず甲斐性ある夫に頼もしき子ども、日々笑ひ声の絶えぬ家、苦勞知らずの若奥様と人の羨む境遇にあらせむと、爪に火灯して我が身は切り詰め誂へ持たせたる桐箪笥訪問着、形見分けとて呼ばれて見れば見覺えあるもの一つなく、いつ買ひ揃へけむと目を疑ふ安物ばかり、かかるものに圍まれていかなる心地してや過ぐしつる、もし金の工面に行き詰まることもやありし、など母に其れと知らせざりけむと、あはれにも口惜しくも樣々に思はれて、寢食忘れ日夜遺影に向かひて泣く泣くかき口説くを、人は不幸の見本とうちささめくめり。
 遺児は三人男うち續きて次は母に似たるおんなごもがなと思ひしに、末も同じ樣にて生ひ出でし上に、生來の癇癪持ちにて體は基準より小さながら、おのが氣に食はぬことには後ろに反り返りて怒り泣く聲狹き賃貸アパートうちに響きわたり、近隣住民よりは連日苦情嫌味の嵐と後にぞ聞きし、これに多くは心痛めて壽命もや縮めつらむとなま恨めしくはありながら、かかる幼な子殘して先立ちけむ心の後ろめたさいかばかりぞとあはれさまさりて日々扱ひ見るに、さるいはけなきまなこにも母のゆかりを見知るにや、ばあばばあばとまづ呼びたてて抱つこをせがみ、抱き上げられてはにつこと笑ふ可愛らしさ、父もあなたがた祖母も同じごとあやすにもいやいやと嫌ふに、不思議と我には懐くをこの子はそちら樣血縁の濃きにや、御聲聞き知り近くにおはする時には更に駄々こね侍らぬはと婿がたの人々の言ふを聞くに、いとどかなしくて朝早くよりバス電車乗り繼ぎ、毎日といふばかり孫の世話にぞ明け暮れたる。
 この子十一といふ年婿なる人はうちつけに見合ひ重ねて、四十路余りなる人との再婚とり決めぬ、子らに新しき母をと求むるなれど、先方も子連れの縁組なればいづれ難しきこともこそと危ぶみうち守るに、なほ半年も經ぬほどに不協和音の鳴り響くを、さればよと胸潰れてひと日末の子呼び出だし、貞則は今の母いかに思ふぞばあばと比べいづれをや思ふべきと問ふに、小首傾げて少し考へ嫌ひやと一言、兄ちゃんたちは糞婆あと呼びたるも折々飴玉ゲームなど買うて貰ふに、我は言ひつけ守りて日頃の皿拭き皿運びも手傳ふを、やり方惡しと怒られ菓子もおもちやもえ貰はず、兄ちやん達も呉れねば友達の家に行きてゲームはするなり、されどあまりうち頻りては友達も機嫌惡くて、貞則君ちのゲームもたまには貸せかしと言はるるがつらし、貸せと言はれて貸せるものならば人に頭下げて借りなどせぬをと、子供ながらに憂きこと語りて目をしばたたく、見るだにうち涙ぐまれて野球帽越しいが栗頭かき撫で、さる我慢をこそしけれな良い子良い子と慰め言ふ他なかりけり。
 そのゲームといふ物いか程か知らねど、友達うちにてさばかり肩身狹き思ひせずと、婆の金にて買うて遣らむと財布取り出だすを、否々駄目やと押し留め、我のみ買うて貰ふてはまた兄ちやんどもに苛められむ、さらぬだに例の婆ちゃんのえこ贔屓とあいなく言はるるものをとさかしく分別しつつ、なほもゲームや欲しからむとばかり思ひ巡らして、さらば婆ちやんちを秘密基地にして我が寶物隱し置かむ、兄ちやんどもの氣付くまじくここにてのみゲームしなば取り上げらるることもあらじ、さる物ここにありと我も言はねば婆ちやんも人にな告げそ、二人の秘密やといと嬉しげに足元飛び回るを、よしよし貞則と婆ちやんの二人の秘密な、口の裂くとも兄ちやんどもには言はじ、いざかし一番良いのを買ひに行かむなと老婆と子供の二人はしやぎて週末待ち兼ね町の電氣屋に急ぎたり。

 良い子良い子 良い子かき撫づ ばあちやんは 長生きしてなと 縋り言ふ児を

 思ふこと かたがたたがふ 世の中に なほ行く末の 頼まるるかな




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