たそがれ百景


   十三

 ある人早うに夫なくなして初七日果てて思ふやう、さてもこれより先身のたづきといふものいかにすべき、嫁入り前はつかに勤めの經驗はあれど女は稼ぐ要なしただ家を守るべしの持論曲げざりし人にこの十年添ひ暮らし、はかなくて月日經にしかば特技資格といふものもなく、さらでも仕事少なき田舍にうちつけに職にありつくべくもあらぬを、ただ些かの田畑耕すわざだにかた心得てもあらましかば、野菜育て季節の花咲かせて隣家がやうに市場出荷の眞似ごとなどせましを、實家は町かたの商家良人も役場勤めにて農とは無縁の家なりしかば、今更に種の蒔きやう作物の取り入れ一からまねぶべくもあらず教へむ人とてあるまじ、かく取り柄もなく若くも老いてもあらぬ身の、この先何わざして口を糊せむあな心もとなやと嘆く程に、夫がた縁戚のつてありて川向こうの小學校廚房の仕事にこの春よりとてかつがつ就職定まりぬ。
先は通へる兒童の數いと多くもあらず、元は分校なりしが統合してやうやう擔任の數も増えたるに、食べ盛りの子らに滋養あるもの食べさせむ料理の知識持ち合はせたる人ぞあらまほしきとて求むるなりけり、知識といふほどにもあらねど嫁入り前母に嚴しく言はれ裁縫料理を人に習ひしことあれば、三度の食事故人に不味しとのお叱りも受けず、寄合に折々差し入れし煮物揚げ物茶菓子やうの品々も概ね好評と覺えしを、またこの窮状見兼ねて遠きゆかりゆゑに仲介の勞取られし人の心もかたじけなし、まづは案ずるより生むが安しといふなれば、久方ぶりの月給仕事いで試みむやとしひて心強く思ひなし、三角巾きりりと結び大釜大鍋の前にて熱し重しの惡戰苦鬪、おばちやん美味かりしぞまた同じの作りてなと食器返しに來る子供の聲の可愛さに、手足の痛み疲れも吹き飛びつつおのれ自ら子は生さねど昔より不思議に子供に好かるる有り難さ、かく子らの懷けば母親たち日替り當番にて廚房手傳いに通ふにも自づと親しまれて、コッペパン瓶牛乳の殘り野菜の切れ端持てゆけ持てゆけと氣前良く渡さるる藁紙包み、寂しき朝夕の食卓に折々の彩り添へたり。
菩提の寺は裏手の田んぼ越えてただ差し向かひの程なれば、鷄の鳴くや遲きと庭降り立ちて朝露含む花を摘み、庭淋しき時は行く手の畦道に野の花摘みて仕事前の墓參り缺かさず、顏も知らぬ舅姑の爲にも清水汲みかけ案じたまふなかく無事に暮らせりと合掌するを日課としたれば、毎朝早くに感心感心佛もさぞ喜び給ふらむと竹帚片手に老和尚の譽めものにし給ふほどに、ひと日夏風邪こじらせて夜中より咳止まらずだるきことこの上なし、かかる時心細きものは一人暮らしなり、大丈夫かと世話燒く人もあらねば這ふ這ふ手水に通ひ、この一年缺勤といふものせざりしものを子らに風邪移してはと泣く泣く休み告げ遣りぬ。
佛間の振り子時計ボーンボーンと四つ鳴るを夢うつつに數へ、はや夕方になりたるか蚊遣香焚かむと片肘つきて庭のかた眺めやるに、縁側に何ぞ物の影見ゆる辛うじて起き出でてみれば誰が置きつるにか土鍋なりけり、中は卵粥にて傍らの布巾掛けたる容器には桃の甘煮盆の上に匙まで添へてと見るままに、俄かに空腹覺えてまづ桃一切れ口に入れ、さばかり食慾なかりしを果實の汁の瑞々しさにおのれ忘れて次々平らげ、粥はた冷めたれど美味きこと世の常ならず思へばけふは朝から碌々もの食べざりつるは、誰が親切にかいづれ近所の人の仕業にこそ隣人とは有難きものかなと涙ぐまれて寢卷の袖をぞ濡らしける。
またの日は學校休みの曜日なれば心のどかに伏し暮らす枕元に、代はる代はる見舞ひの人々野良仕事の歸りか汗拭ひつつ手ごとに竹籠藁づとのお裾分け、これ飮めかし生姜梨の實の煎じ汁、おらが家の衆は毎朝これ飮みたれば生まれてこの方風邪知らず、いでやいでやと皺多き手より藥罐ごと渡されて、乾きたる脣濕せばげに胸の邊り爽やかに大きなる力滿ちて覺ゆ。
さるは生來いと頑健なる質にもあらぬに、廚房の力仕事やうやう白髮混じる頃にはなかなか手際よくこなし、同じく若うして寡婦となれるが新たに配屬されて折々難儀したるに、馴れなばさほど辛くは覺えじ要領要領と笑ひかけ勵ますほどにもなりぬ、校庭狹しと驅け囘りし風呂敷マントの大將も弟妹の世話に明け暮れしお下げ髮も春巡り來るごとに一人また一人と巣立ちゆき、總領以外は町かたへ出づるにやその後の消息もをさをさ聞こえ來ぬ上に、我が菩提寺と頼む古寺の住持も失せたまひて後あと繼ぐ人もなければ境内も荒れゆくばかり、年年歳歳見はるかす山の立ち姿のみ昔と變はらず、いつのほどよりか村のそちこち家も畑も無人のままうち棄てられて往來寂しくなりにけり。
かく村の寂れゆくさま聞き知りて、そのかみ取り分き可愛がりし甥の今は實家の當主となりたるが、寒きほどだにこち來て暮らしたまへと折々町かたへ呼び寄すれど、ここには守るべき墓のあればとて文に、

今更に かかる嫗の 歸らめや 馴れし田舍を たちは離れじ
朝は我 夕は隣と 言ひ合はせ 主なき寺の 鐘ぞ絶やさぬ




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