たそがれ百景 十二 ある人久しく患へる目のやまひ人に勸めらるるままにこのわたりにては腕良しと評判の醫院にて手術するに、げに痛みもなくあつけなき程に治療終はりてその日の内に歸りてよしと許されたれば、日歸り手術といふはまことにこそ、かかる果敢なき手術を恐れてその内その内と先伸ばしにしけむ我が身の愚かさよ、噂に違はず院長の手際よく術後の痛みも痺れもなかりければ紹介の人には感謝感激、かかることは口コミに勝るものあらじなといみじく氣を良くして迎への妻に語る。 この年頃趣味の讀書から遠ざかり義理ある人にも無沙汰重ねしを、今年は久方ぶり筆をとり年賀の挨拶に添へてかく視界開けて世の中明るくなりたる由書き加へむ、まづはあの人この人にと師走待ち兼ね住所録廣げて壽ぎの言葉を書き連ねたり。 さるは年々少なくなりゆく年賀状の、ましてこの頃は目元おぼつかなく、そのかみ少しは書の心得ありと知られたる引退教師の鳥の跡のやうなる筆跡もなかなか見苦し、わざと知らすべき近況もなければかかる儀禮の挨拶も年相應に省き捨てて、世の中のことは見じ知らじの隱居になり果ててむと思ひとり、書簡皆がら束ねて燃してければはつかに舊知の人々數名の住所のみ殘りたるに、一番上の欄にはわが消息を絶ちし後も變はらず文をおこせし人、暑中寒中季節の折々恙無きかこと無く暮らしたるかと必ず自筆の葉書呉れし人の名あり、大學の同窓ながら年二つのこのかみなれば物腰大人び思慮深くて、社會に出でてよりこなた事あるごとに頼りに思ひて相談し、いかばかり世話になりにしを、まづはいの一番にこれまでの無音詫び、愛飮の酒贈りて近き再會言ひ遣らむ、昔より地酒に目のなかりしをと友の顏思ひ浮かべては矢も楯もたまらず、妻急き立てて歳暮コーナーに足運び、記憶の限りの好物あれもこれもと注文リストに餘るばかり、いかに驚き喜ばむと年甲斐もなき惡戲心噛み殺しつつ、送り状に我が名大きく認めつ。 さて元日三日過ぐる頃續々と年賀の返信屆く中に、待ち人の名はなかりけり、もし轉居などしけるか否々住所變はりては年末の歳暮も屆くまじ、デパートよりさる通知もなかりしを、長き旅行にもや出でたる孫ひ孫の世話にや明け暮れたると樣々思ひ巡らしながら、日に幾たびも庭先のポスト覗くを、たまさか立ち寄りたる高校生の孫には戀文待ちたる若人やと笑はれ、電話すべきかすまじきかと後ろ手組みて居間うろつくを、動物園の熊と娘女房は密かにうちささめく。 近來の暖冬に似ず今年は底冷え嚴しくて門松の上に雪ぞ散る、遲く起き出だして新聞取り入るるに垣根の合間より桃色若草色の晴れ着姿はなやかに、笑ひさざめきて皆一路に驛のかたへと向かふめるを、けふは成人式なりけりと思ひ出でてこの雪の中氣の毒なと見送るに、美人一人足を止めてもし何ぞ落とされつるにやと優しき手をさし伸ばすその先に、封筒一つ落ちてあり、慌てて拾ひ上げて見れば我宛の文にて差出人はここら待ち焦がれしその人と見るままに、さりや無事なりけりなほ忘れで文おこせつるはと嬉しくて、下駄脱ぐもそこそこ玄關にて急ぎ開封するに見慣れし筆跡にはあらで細君の代筆なりけり。 歳暮の禮返信遲れし詫び長々書き連ねたるを讀み飛ばし、目を凝らして二枚三枚と便箋めくるほどに、膝がくがくとうち震へ覺えずうめき聲出でつるにか、臺所よりいかにしたるぞと妻の寄り來ていぶかしげにうちまもりたるに、はや死にけるは故人となりにけるはと狼狽へて文渡すを、妻は眼鏡かけ直して靜かに讀み上げたり。 二年前癌の宣告受けてより手術再發繰り返し、この一年は起きも上がらず寢たきりの病人となりにしこと、最期は管に繋がれ經口攝取嚴禁と醫者から固く言はれしを、歳暮の日本酒枕元に見するに珍しき便りなと涙流して喜びつつ、少し味わはせよと口薄く開けたるに恐る恐る一滴垂らすを美味げに飮み干しまた涙流して、奴が家には目出度きことありけむを正月過ぐるまで不幸知らすな、一足先に極樂詣で、恩師ともがら集ひたらむにこの酒土産に持ちゆかむ、美味し美味しと笑ひしその夜遲く肺炎併發して虚しくなりにきと、これ書き記しけむ細君の心思ひ遣るにか妻の聲もうち濕りつつ、さらば年の内に亡くなられつるにこそと、夫婦顏見合はせてうす暗き廊下に立ち盡くしたり。 思ひ兼ね 立ち出でてみれば 梅が枝に 友待つ雪の 降り添ひゆくも うはばみの うま酒み酒 たふたふに 冥土土産と 贈らざりしを ▼「詩藻樓」表紙へ戻る |