たそがれ百景 十一 ある人茶の湯稽古の歸るさの道に親しき人々とコーヒー飮みに寄り道したる、喫茶店街の中心から些か遠くはあれど、味よし雰圍氣よしとて雜誌掲載などもありける店なれば、ピークタイム過ぎても客足減らず、趣味良き陶器のカップに焙煎の香芳ばしく、クラシック音樂の音色あるかなきかに流れ來るも日常離れてのどやかに優しき心地す。 來月納涼の茶會あればその話題一頻りして解散かと思ふに、向かひの人グラスの氷玩びつつ何やらうち出でがたき氣色なり、昨日かかる事なむありし、いでやショックにてよべ一晩寢られざりきとやうやう語り出づるを聞けば、例の嫁の愚癡話にて、初對面より何やらんよそよそしく打ち解け難き人かなと思ひしを、十年過ぎてももてなし變はらずもの言ひのきつきこといま時の人は皆あれがやうにや、息子孫に食べさせばやと月に數囘好物送るを一々咎め立てして太るの蟲齒になるのとことごとくダメ出ししありくなる、何も嫁に食はせむとて送るものにもあらず同じき町に住まひながらをさをさ會ふこと叶はぬ五歳の孫のかなしきを、日夜思ひ浮かべて菓子玩具あれこれ箱に詰めて送るさへ、氣持ち有難けれど菓子は我が家の方針にて週一度しか許さず、玩具は狹き賃貸の部屋に置場所なく子供もやがて飽きぬべければとて包みもさながら返しておこす有り樣ぞや、まれまれ訪ね行きてもいかに思ひ隔てたるにか部屋散らかりたればと玄關より更に上げねば久しく孫の顏も見ず、さらばこれのみはと思ひ託して送る箱詰めもすげなく返さるるばかりにていともいとも甲斐なしや、さだめて幼な子のもろ手伸ばして求むるをガミガミ叱りつけて取り上げもやすらむ、年よりはもの覺え早く賢しき子のたまには菓子なり玩具なり欲しがるらむものをと思ひやれども意見してこと荒立てむもあいなし、息子も嫁の性分知りたれば強くもえ言はずいつ見ても尻に敷かれてとため息つくを待ち兼ねて隣の人、我らが若き時分は姑樣に逆らはむなど更に更に思ひも寄らずまた許さるることにもあらざりしを、この頃の教育受けたる人は隨分に賢くおはしてなべて理詰めにあしらひ爲せば、昔よりの仕來たりも祖父母の思ひも無駄無意味と切り捨てとりつく島もなしやと我が身にも覺えあるにや頻りに頷きたり。 さて總領夫婦とはさる樣にてあひ思ふべくもあらざりければ、我が子とてこの世にこの子一人かは、他市には嫁ぎたれど血を分けたる娘あれば行く行くはこれを呼び寄せ二世帶住宅にリフォームし、晝夜問はず氣ままに行き來すべき住まひに造り替へむ、實の母娘なればかたみに心安くもの言ひ語らひてもあらましをと思ひて、昨日たまさか立ち寄りたるに然々老後任せむと思ふぞとうち言ふを、言はせも果てず無理無理無理と兩手にバツ印作り、いま時の親は自立心旺盛にて子の世話にならむとは思はぬものぞ、體效く内に小金貯めて温泉附きのマンション買ふもよしホテル竝みの施設入るもよし、親は親子は子にて別世帶別會計別々の人生なれば、其々の人生設計立ててかたみに干渉せず寄りかからずが主流ぞと語らひなすに、あまりあぢきなくも言ひなすものかなと思ひて、それは健康まれ財力まれ足らひてある間はさる選擇肢もあらめいづれも不足しては子を頼らではありなむや、立派に成人したる息子娘のありながら親を他所に預けて涼しき顏はよもすまじ、さても世人の指差し言はむことよと恥ぢしむるにも動なくて、なほ老後は見じ同居はせじと我が娘ながら薄情この上なきを、恩着するにはあらねど汝が子育ての最中朝と言はず夜と言はずこの母のいかばかり手助けせしを忘れつるか、熱出だしつと言ひてはこなたの豫定も聞かで朝早くより預けに來、殘業ありと言ひては保育園の迎へ夕食の用意に母呼びつけ下の子にはこれ食はせよ買い物の序でにあれ買ひ置けと己が仕事の合間に電話口にてあれこれの指圖、年金暮らしの身にははいと安くもあらぬタクシー通ひに出費も痛く覺えしを、夫婦共働きに幼き年子のあればさこそは忙しからめと思ひて車三十分はかかる道のり一時は毎日と言ふばかり往復せしなり、それも我が娘我が孫のことと思へばこそ老體に鞭打ち己が用事も疲れも省き捨てて通ひしか、今更その逆はえせじとは竝々の情ある人ならば言ふまじきものを、あまり情けなしやと嘆くを見てもとにかく無理と知らぬ顏なればげにとりつく島のなく、誰に似てかく心なきもの言ひはするぞと亡き夫すら恨めしく、ひたすら子のため良かれと盡くし來たりつる我が身のいかにをこなりしよとあの時この時思ひたどられてせんかたなくぞ悲しきや、それは限りある人の身なれば固く行く末契るとも豫期せぬことの出で來て心には思ひながら初めの志違ふらむこともあるべし、また昔と異なる今の世に己が生活犧牲にしてまで親の面倒見よとは言はず望むことにもあらねども、ただ一言母に心細き思ひはせさせじと、兄妹力合はせて心の至る限り思ひの及ぶ限り後ろ見すべく語らひ合はせたれば思ひ案ずなと、ただその一言を聞きたらばこれまでの勞苦報いられいぶせさ晴れゆく心地すべきに、上邊の言葉すら思ひやりなく見じ知らじとつれな顏するを、さらばこれよりは頼む人なき身と思ひなすべき身の上にこそと、うち思ふだに悲しくも侘びしくもあさましくも樣々に思ひしなえてこの先ながらへむとも思はずなりにけりとてさめざめとうち泣くを、同席の人々慰めむ言の葉もなくて皆うつむきぬ。 孤獨死を なに他人事と 思ひけむ よるべもあらぬ 我が身なりけり ばあば好きと 頬すり寄せて 言ひし子に けふも明日も あひ見てしがな ▼「詩藻樓」表紙へ戻る |