たそがれ百景


   十

 ある人うち續く不景氣の世をつくづく顧みるに、リストラも他人事ならずさしたる業績もなき身のいつ首切らるべきと、長年の會社勤めもいとはかなく思ひなりて、いかがはせむ子供も皆成人したり、家のローンもこれまで馬車馬が如く働き繰り上げ返濟重ねしかば僅かばかりの殘額なり、人生八十年と言ふなれば殘りとて幾ばくあらむや、家長の勤めはかつがつ果たしつ、これよりは時間に追はれず雨天に讀書し晴れたる空のもと季節の草花尋ね、學生時代に心惹かれし佛像巡りなどして心安らかに老いてましと思ひ取り、まづ妻に然々思ふと語らへば、年金受給の歳までいま七八年あるを、ましてその歳も年々引き上げとなるべく聞くを、さしたる理由もなく勤め辭めむは早計にあらずや、一度辭めては再びの就職は難し、リストラまれ病まれ何ぞやんごとなきゆゑあらばこそさもあらめ、子の教育費家のローン拂ひ終へたりとて出費はそれのみにあらず、我ら夫婦老後の蓄へもをさをさなきを、囑託なりパートなりとも仕事續けて餘りの時間をば趣味に當ててよかしとうけ引かぬ氣色なり。
それもことわり妻はこの年頃パートながら常勤と異ならぬ働きぶり店長に認められ、土日は時給良ければとみずから週末のシフトこなして新卒の社員に業務教へ、親切機敏そつなき應對に客受けも上々にて惣菜賣り場にその人なくてはと隨分に頼らるると聞くを、さりとて家事にも手を拔かず、わが歸宅する頃には洗濯干し終へ卓上に竝ぶ料理の冷めたることなかりしを、思ひ知らぬにはあらねど其れは其れ此れは此れとわりなき屁理屈こじつけて、人事の季節これからといふ頃勝手に辭表をぞ出だしてける。
さすがに後ろ暗くやありけむ、家が事は俺に任せよと頼みもせぬに朝のゴミ出し夕の風呂掃除自作の鉢卷き額に甲斐甲斐しく、退職翌日より無益に寢坊せじと妻より早く目覺ましかけてあふなあふな張り切るものから、所詮家事のかの字も知らぬ親父仕事大學生の娘に邪魔邪魔と煙たがられ、我は手傳ふつもりの炊事洗濯も水の無駄遣ひと妻も有難がらねば段々片隅に追ひやられ、辛うじて朝夕のポチの散歩のみ女性陣よりは許されぬ。
昔より我にはさしも懷かぬ駄犬の相手つまらぬつまらぬと腐りながら、人は額に汗して働くこの時間、縁側に一人つくづくと眺め暮らすは贅澤といふべしや世の負け組といふべしや、さばかり思ひ望みし佛像巡りもいさや今ただ今行かずともと面倒臭くなり、やうやう不精髭むくつけくなりゆくほどに町内會の仕事囘り來たり、この夏より町内一帶ゴミ有料化となるべく定まりたるに、いまだ周知圖れず集團説明會に來ぬ人獨居の高齡者世帶に多かり、これまで町のをちこちにコンテナちふ便利なるものありて晝夜問はずゴミ出しせしを、夏過ぎては有料袋購入し定められたる日より他に家庭ゴミ出だすは嚴禁と、いと嚴しきルール賦せられむに戸惑ふらむ人あまた出で來るべければ今より各戸囘りて事のありやう説明すべしと、うち聞きには公務員のすべき仕事にこそと思へども、寄り合ひにて町内有志の協力頼むと役所のお偉方に直々頭下げられては、かかるいとまある身の否ともえ言はず澁々驅り出されて、皋月待つはな橘の香る頃協力員の腕章卷きて高齡者リスト片手に見知らぬ年寄りの家をば訪ねたり。
玄關のチャイム數囘留守かと思ふにギギギと鈍き音してドア細く開くその奧に、小柄なる老婆の上目遣ひに我を睨むあり、指導の通り腕章見せて役所よりの派遣用件は此れ此れとしどろもどろに言ひなせど、なほ疑はしげにじろりと一瞥なにぞの押し賣り間に合ひたれば不要不要とすげなく遣らはれ、必死の押し問答も甲斐なく同意の判子もサインも得られざりけり。
その日は晝夕併せて四件囘りたるに、うち三件は難なく押印せし上役所の御仕事ご苦勞樣と出がらしながらお茶さへ振る舞ふ家多かりしを、初めの婆樣のみは手強きこと半端なく聞く耳持たずとはこのことかと、二囘目三囘目失敗するごとに怒り半分意地半分今更引き下がるも口惜しく覺えて、日差し強さ増しゆく空の下重き足引きずり通ふものから、心いぶせきこと限りなし。
そのかみ我も營業畑にあらましかばかかる折言の葉巧みに言ひてましを、根からの事務職人間にて上手く口囘らず、婆樣この頃は我と見知るままに鼻先にてドアぴしやりと閉てたれば言はむすべせむすべなきを、もはやこれまで明日役所の人に助つ人頼まむと思ふぞと、七日目といふ夜萬策盡きてパート歸りの妻に崩し出づるに何思ひけむ、明日非番なれば我行きて試みむと言ひ出でたるを、止せ止せ所詮は役所のすべき仕事無給の我らが不快なる思ひして成し遂ぐべきことかは、シーザーが金はシーザーに、役所の仕事は役所に速やかに返すべし、税金食ひたる奴ばらの口車に乘せられかかる只働きさせられて、お人好しともをことも心の内に嘲笑はれけむこそ悔しけれ、その日暮らしの我らが血税吸ひ上げ今の世の不景氣にもつれな顏してお手盛りの給金年金保證されながら、汚き仕事憎まれ役を我ら民間人に押し付け自らは涼しきオフィスにて定時に上がる役人の手傳ひ馬鹿らし馬鹿らし、かかることせむとて勤め辭めつる身にもあらぬをと酒杯重ねて息卷きぬ。
さてまたの日買ひ物より歸り來たる妻のこれ見よかしと紙出だすに目を遣れば、昨夜醉ひて投げ棄てつる高齡者リストなり、よくよく見れば久しく空欄なりし例の老女の名の横に、たどたどしきサインと拇印二つ竝びてあるものか、よもやと思ひてこれいかにしつるぞ誰が文字ぞと震ふ震ふ尋ぬるに、女房殿つぶつぶと肥えたるトマトあまたレジ袋より取り出だしつつ、莞爾としてかく、

汗掻き掻き ここだ通ひし 家ぬしの その名忘れむ 君ならなくに
朝捥ぎの まるまるトマト よく冷やせと おうなの呉れし まるまるトマト




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