たそがれ百景 九 ある人郊外の團地に妻と二人暮らしけり。 若き頃は二段飛ばしに驅け上がりし階段も、八十過ぎては片側の手すり頼りに膝押さへてやうやう上り、持病の心臟病さへあればポケットのニトロ確かめ息を繼ぎつつ日々の買ひ物こなしけるを、見兼ねて宅配勸むる人あれど、せめて節約すべく思へればその日の目玉商品幾度も竝び直してしこたま買ひこむに如かじ、宅配やら人頼むやらは思ひも寄らずと聞き流しつつ、老妻半身不隨にて久しく寢たきりなるを下の世話まであはれに見扱ひかつがつその日をば過ぐしてけり。 男じもの炊事洗濯に手指かからせ主婦らに紛れて安き肉漁る昔は先生と呼ばれし身を、それは思はず病者の日に日にあをみ衰へてお父さん御免お父さん御免と涙流すぞ辛きや、晝には翳ろふ窓際の寢牀を訪るる人もなく、我なき時はいかに徒然ならむとラジオかけてゆけど、この頃の言葉は早口にてえ聞き取らずとスイッチ止めて押しやりければいとやくなし、好みたりし裁縫も愛誦せし民謠も氣力萎えたるにか見向きもせずなりぬるを、かくてのみはと危ふく覺えて、いかに思ひ廻らしけむ、ひと日白き箱二つ兩脇に抱へて歸り來たり。 これ見よかし攜帶電話といふ物買ひ來たるぞや、いま時の人の必需品といふなる持ち物なれば、老いも若きも當たり前のやうに持ちたるを、八十の手習ひいざ試みむと枕邊に揃ひの機器二つ竝べて見せれば、さすがに妻も珍しがり手に取り持つを、汝はピンク我は青と思ひ定めて買うたるに、青が良きかよしよし青取れかし昔より贔屓の色よな、我はこのピンク持ちたらむ若やぎたる心地こそすれとおどけて言ふに病者もつられてうち笑ふ、いく月ぶりの妻の笑顏か。 さるは店頭にて操作の一番易しきを求め、若き店員とさし向かひ附き切りの指導受けつつ、通話はこのボタン切るにはこのボタン他はな觸れそと幾度も念を押されながら、さて持ち歸り來ては清く忘れていづれのボタンぞ通話せむにはと添附の説明書と首つぴきの果て、昔よりかかるハイカラ商品上手く使ひこなすることこそなかりしか、我はお手上げ汝が出番ぞと眼鏡外せば、この受話器描きたるボタンにあらずやいで試みむと病者も頭もたげて、二人惡戰苦鬪の末初めてもしもしと電話通して相手の聲の聞こえ來たるに、顏見合せ小躍りせむばかり手を取り合ひて喜びぬ。 それよりは買ひ物とては店先より妻に電話し、夕げの鍋に鷄はもも肉胸肉いづれか良きぞそもそも何の異なるぞ、蒟蒻は白や良き黒や良き、椎茸中國産は滅法安きをこれ買うても良きかと一々尋ね、生活費下ろすと郵便局に來ては妻に電話し、いかほど下ろすべきぞ今月は切り詰め少し貯金もせむずるか、金貯めていつか温泉一泊などしたきにと人竝ぶ窓口の前にて延々延々と、わざわざ電話して言ふべきことにもあらぬをと待ち受け人は苦笑しつつも、胸肉よりもも肉買へかし脂多ければ汁も滋味深く美味からむ、蒟蒻は白ぞ良からむ黒より色合ひ上品なる心地すれば、野菜高くとも國産ならずは腹の底に惡きもの溜まりゆくと聞くを構へて表示確かめよと、さすが主婦の心根忘れねば病牀よりあれこれ指圖して、心なしにや頬に色さし少し昔の面影戻りたるやうなるを横目に、けふも夫はスーパー行くとて攜帶手に取り心の内にぞかく、 月々の 基本料金高けれど 惜しかるまじき 電話なりけり 妻と我と 揃ひの電話うち竝べ 明日がためにと 充電するも ▼「詩藻樓」表紙へ戻る |