たそがれ百景


   七

 ある人小さき戸建に妻と二人暮らしけり。
この年頃うち續きて喜壽の祝ひ終へ、腰やら膝やらやうやう故障の氣味出で來るままに、ややもせば和室縁側のわづかなる段差に躓き、またさして高くもあらぬ浴槽跨ぎ難くなど覺えければ、この先不便を忍びつつながらへむもあいなし、かかる時のためとてこそ節約重ね將來に備へけめ、轉倒骨折なんどの憂き目見ぬ間に家の内リフォームして住み易くせむと思ひとり、早速業者呼び寄せ打ち合はせ始めたり。
妻はもとより猫背氣味なりしがこの頃いよいよ背筋曲がり、ここかしこに頭ゴチゴチ當てて囘る有り樣なれば、おのづと流し洗面臺に背丈屆かず踏み臺に乘りて洗ひ物するがあはれなりしを、良き折りと思ひてシステムキッチンのパンフレット廣げ、いま時の臺所といふはかかるものにこそあなれ、風呂場行かでも壁のスイッチ一押しにて給湯操作し、どこやらのボタン押さば天井近き收納棚の自動に降り來て大皿まれ箸置きまれ樂に取り出だすべきぞ、流しガス臺は調整して座したるまま煮炊きせむによろしき高さにせむ、煮豆や何や時間要すべき料理にはいとよからむ、時折鍋見つつ本など讀みたらむによと業者の受け賣り語れば、妻も眼鏡かけ直して見入りつつ、されどいみじく金かかるべし、殘り少なき餘生にさる贅澤せでもと例の勿體なと思へる氣色なり。殘り少なければこそ思ひ殘すことなく明日知れぬ命を心安らかに送らむと思ふぞかし、實直に勤め來て足萎え弱りたる爺婆が、この家の中樂に行き來せむになけなしの貯金使ひ果たすとてバチは當たるまじ、またかかる時使ひ置かねばなまなかなる小金殘りて詮なき爭ひのもとにもこそなれ、兒孫のために美田買はずと、これも例のごと聞く耳持たで押しきりぬ。
さて工事の間は近きアパートの一階に間借りし、主は家具か人かといふ有り樣忍びつつ、我は杖つき妻には手押し車押させて工事現場に足運び、日々の進み具合見ながら業者と輕口言ひ交はすを午後の日課としけるに、寓居二ヶ月目といふ頃、珍しく訪ね來たる娘の歸り際に聲ひそめて、何やらん母の樣子のなま惚け惚けしく見えしが怪しきを、この頃は常にかかる樣かといぶかしげに耳打ちしけり。
久しぶりに會ひたればこそ老いぶり強くおぼえけめ、そはいと若うもあらねばもの忘れ思ひ違ひは年相應にあるらむものをと受け流すものから、それよりは心つけて妻の樣子見るに、成程日頃は勿體な勿體なを口癖にせしを、この頃はそこらの電氣水道消し忘れ止め忘れ、危ふく鍋焦がしてほとほと警報器鳴らしつべきこともあり、また手遊ばせおくは冥利惡しとテレビ見るにも繕ひ物の籠引き寄せ、足は青竹踏みなど作業に餘念なかりしを、この頃は目疲るとて本も讀まず謠の練習もせず、隣家の白壁より他に景色もなき窓を徒然とうち眺めたるまま時の過ぎゆくをも知らぬげに、三度の食事の支度さへ忘れがちなり。
されば我もこの頃は難聽とみに進みて、をさをさ會話といふものせでありしを思ひ省みつつ、朝夕努めてもの言ひかけなどして反應見るに、些か要領得ず頓珍漢なるいらへのみ返り來るを、こはただ事ならざめりとやうやう見知れば急ぎ娘に附き添はせさるべき醫者に見せてけり。
結果いかにと我はアパートにて待つ程に、夕方近く娘一人戻り來て、入院となりたれば着替へ取りに來つるぞと、腦に異常ありければいづれ手術となるらむと、思ひの外のことを言ふ。
後に聞けば慢性硬膜下血腫とて、頭をどこやらにぶつけし後遺症ぞとや、確かにさること度々ありしをと思ひ出でつつ、我もバス乘り繼ぎ日々面會に通ふに、病室の妻の姿髮はパーマ崩れておどろとなり、薄汚れたる寢卷きに空ろなるまなざしの、我を見てもさしも嬉しと思へる氣色にあらず横に立たせて寢入りたるが常なれば、半日かけて通ふも甲斐なき心地して、たまさか來合はせたる娘に、工事の打ち合はせあり留守がちにもえせぬを、かかる完全看護の病院に常時家族の附き添ひあらでもと思ふぞかしとうち言へば、何の癇に觸れつるにか突然怒り出し、例の身勝手獨りよがりよくせき冷たき人かな、初めを言へば誰が責任ぞかくまで惡くなる前に、異變に氣附きて我らに知らするまれ醫者に見するまれ方法はありなましもの、我がたまさかに訪れしだに異常はすぐさま見取られしを、長年連れ添ひ身近に暮らしてかかる有り樣何ゆゑの夫婦か、あまり情けなしと言ひ募る所へ倅の入り來て、無沙汰の挨拶もせず姉と竝び親父は冷たしと口を揃へたり。
さて後入院二ヶ月ばかり經ぬれど、囘復なく症状惡化するのみにて、悲しきは家族判別せぬ時もあり、いかなるにか夜もすがら叫び續け喚き續け人格變はりたるかと思ふばかり、病院からは退院迫られ連日連夜家族會議重ね、言ひ合ひ詰り合ひの果て果てに遠方の施設へ入所定まりぬ。
その日となりて娘の車にて妻送り、獨り家に歸り來るに新築と異ならぬ玄關居間臺所のいとうるはしく造作整ひたるを、さばかり心入れて住み易くせしをと、これよりは獨りここに住むべきかと、ただ呆れたる心地す。


かたがたに 背かれ果てて 歸り來れば 庭のカラスぞ カアと鳴きける
食洗機 袋被りて 眞新し 自動スイッチ 押す人なしに




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