たそがれ百景 四 ある人親の介護に明け暮れたる、日ごろ我が事すべき暇もをさをさあらで過ぐすほどに、ひと日昔の親しき教へ子の、結婚すとて招待状おこせたれば、いかがはせむ我が教師になり初めし頃のかなしき教へ子、早くにふた親なくなして隨分に苦勞しけるも知りたれば、かかるめでたき門出に驅けつけ肩に手をかけ祝ひたし、また祝宴の場には懷かしき人々集ひたるべきに、年ごろの物語かたらはむ、いかに心晴れて樂しからむと思ひやるものから、この母置きてさる遠出やはすべき、片時目を離さばフラフラとさ迷ひ出でて、通りすがりの人交番のたれかれに面倒かけしもただ先だつてのこと、なにゆえ傍ら離れつるぞと電話の兄にさばかり叱られしを、いかがはせむいかがはせむと朝げ夕げの米研ぎに嘆息しつつ、返信ためらへる折りしも、町内の囘覽にかかることいふ、御家族の介護に日夜御攜はりの方々、ショートステイ御活用あれサービスの内容はかうかうと、さるもの利用する人ありと話には聞けども、知らぬ施設に親預けむはうしろめたなし、また世人のおほかた聞き許すべき病にもあらばさもこそあれ、我がかかる理由にてまさに兄などの聞き許すべしや、隣家の嫁は長年の勤めを辭め、おのが時間といふものある限り姑の介護に使ふと聞くを、まことの親の世話によそ人の手借りむとはよも思ふまじ、まして汝は嫁ぎもせず、これまでぬくぬく過ぐし來たるも一重に親の庇護ありしかばこそ、恩愛思ひ知らずは犬畜生にも劣るべしと度々いひおこせたるものをと、と思ひかく思ひ定めかねつつ母に、我が久しき教へ子の、この秋結婚すとて招待状おこせたるを、いかがはせむ初めて擔任受け持ちし年の、先生先生とてあはれに慕ひ睦びし子なれば、思ひ入れ格別に忘れ難く、彼よりもいみじく言葉盡くして度々電話あるを、えこそ否び果てざりけれ、行き歸りに一泊は要すらむ、食事の支度などすべき人なければ、ショートステイとて大きなる施設に、食事風呂の世話する所あなるを、申し込みせむと思ふぞ、ただ一泊のことなれば堪忍してたべと、肩を撫でつつ語るを、さる所行かでもありなむと、さすがに正氣の節々あれば、施設と聞かされ心騷ぐにや、我一人家に殘りて食事もせむ風呂にも入りなむに何の問題もあらじを、心安く出で立てかし心配無用と言ひ募るを、さもありぬべけれど去年の冬、流しの前にて足滑らせ壓迫骨折とてひと冬の入院忘れたまふや、傍らに人あらばこそ救急車も呼ばめ、ただ一人にて萬一の折りいかがせむずるぞ、わりなきこと言はな聞き入れてたべと、兩の手合はせて言ひこしらへけり。 施設と聞きて例の口うるさき電話あれども、この度ばかりはとしひて押し通し、ケアマネ施設相談員などの人々と利用契約取り交はし、我も十年ぶりに禮服新調してぞ待ちたりける。 さてその日となりて、新幹線自由席なればと早目に出で立ち、バスの窓ふと見やればかの老人ホームは道なりけり、道路側は園庭にて、木隱れに車椅子の人々二三人、せはしげに聲かけつつ立ち働く人の姿も見ゆ。 我が親はそれと見えねどうちまもられて、バスの中に手ぞ合はせらるるや。 バスは行けど 行き過ぎかねつ 病む母の 否と言ひしを 預け來たれば ▼「詩藻樓」表紙へ戻る |