たそがれ百景


   三

 ある人七十路あまりの母持たる、近くに住まひたれば勤め歸りなどに折り折りさし覗き、息子ながら程々あはれに思ひ見たるに、この二三月物忘れ増し同じき話を繰り返し、深夜更けての電話、明日はなにぞの日我はいかがすべきぞなど、混亂極まはりたるをやうやう言ひこしらへつつ、父に遲れて一年あまり氣丈に過ぐし來たる人の、さすがに心弱りたるにこそと思ひなすものから、あまりうち頻る折りは、今ただ今言ひつらむものをと聲荒げられけり。
人の勸むるままに、ケアマネヘルパーなんどいふ人々曜日定めて出で入りさするも、いよいよ混亂増すにや、不審なる人忍び入り來て我が財布盜りつるは、警察警察と尋常ならぬ聲音に夜中曉問はずの電話、髮振り亂して言ひ騷ぐを、ほとほと疲れ果てて醫者に見すれば、老年期認知症なれば特效藥といふものなし、ただ本人を不安にせさせず全て肯定して見守るなむよきとのみ言ひ放ち、いととりつき所なかりけり。
もしもやと病院變へて試むるも甲斐なくて、慰めばかりの處方藥も、自らしかと管理えせねば飮み殘しの山となり、いかにしたるにか夕暮れ時待ちつけてはフラフラとさまよひ出でて、驛前商店街に紛るるもあり、持ち合わせもなくタクシーに乘り込み通報さるるもあり、會社には例のヘルパーケアマネといふ人々より、本日の擧動不審のありさまかくかくと頻繁に報告相談の電話、我が業務にいみじく支障をきたし、社内の視線も冷たく覺ゆ。
この上の獨居は難かるべし、さる有り樣にて一人には置き難しと思ふものから、さて我同居せむとは思ひもよらず、昔性分頑ななりし名殘に妻とは今も仲らひ疎遠に、子供も難しき年頃なれば、狹きマンションに引き取らむ必ず家庭内不和の發端となるべし、遠方に嫁ぎし妹あれど、己には親の愛薄かりきなんど若きより言ひ立て恨みたれば絶縁状態にて久し、然るべき所に預け試みむと心には思ひながら、我が雜務にとり紛れすがすがともえせぬほどに、明日連休の初日なれば久方ぶりに母がり訪ね、施設の話せむと思ひ立ちし朝、例のヘルパー事業所より緊急とて、今朝例のごとヘルパーの訪なひしに、御返事なかりしかば隣家の人と入りて見るに、トイレの前に倒れ伏したまひてなむ侍りける、抱き起こして呼び奉れど御目も開かず、朦朧たる御氣色なればいと危ふく覺えて救急車呼び侍りつ。今かしこより電話侍るべしと言ひ終るほどもなく、げに搬送先の病院からとて、應急處置の甲斐なくこの九時三十八分御臨終、急性心不全にて手の施すやうなく侍りきと、こは夢かとたどられて、這ふ這ふ驅けつくればまことに遺體となりてぞ白きシーツの上に置かれたる。
夢の内に通夜告別式なんど執り行ひ、かかる時には妻妹などなかなか頼もしく采配するも亡き人に見せまほしく、我がつれなきもの言ひの數々今更ながら思ひ出でられて、などさばかり聲荒げて怒鳴りけむ、醫者は全て受け入れ不安にせさすなと言ひしを、牀の上にて一人冷たくなりゆくほどいかに侘びしく覺えけむ、たまさかに我訪なひてましかばさし覗きてましかばと、顏覆ひては伏して思ひ仰ぎてぞ思ふ、今更に取りも返さぬものゆゑに。
いかづちの 聲張り上げて怒りしに 呆けてごめんと 言ひし母はも
かくのみに ありけるものを 二十日もある 有給とるを 惜しみけむかも




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