五


 昔はこよなく食ひ意地張りて、好物はコロッケグラタンハンバーグ、給食には先づ先づ滿足したれど、家なる母は洋食さらさら作らぬ人にて、日ごろの食卓には燒き魚に冷奴、煮豆煎り豆浸し豆、おのづから父の好物並ぶも子供には魅力なき獻立、九つ十にもなれば小学生とて付き合ひ忙しく、縄跳びゴム段石蹴り遊びに日は暮れて、又ね又ねと三々五々あかれゆくに、各戸より立ちのぼれる夕餉の匂ひ空腹を刺激して、我が家の御飯今宵はカレーにてもあれかし、オムライスにてもあれかしと祈りつつ台所に駆け込めば、あひも變はらぬ煮物の大鉢に豆乾物のたぐひ、口答へ許さぬ家なればかこち顔をば見せねども、たまには揚げ物もがな洋食もがなと、心の内につぶやかれけり。
 姉妹三人買ひ物のお供は順繰りに巡り来て、我が當番とての午後、カート引きつつ母の御機嫌伺へばその日は上々の樣子、母樣今宵はピザパイなど食べたや、さる物最後に食べしはいつなりけむ、手捏ねの生地に海老イカあまた載せてよ、チーズ散らして天火に燒かばいかに美味しからむ、生地作り面倒ならば宿題いと疾く終へて手伝ひなむを、今宵はピザにしてたべ、吾が一生のお願ひと上目遣ひに拝めば、母なる人は高笑ひして、その熱心を勉強に注げかしと揶揄しつつ、八百屋魚屋にてピザの食材求むるに嬉しとは愚かなり、小躍りせむばかり荷物持ちにぞ精出だし、その日は菓子もねだらず母急き立てて、飛ぶが如くに歸り着きぬ。
 常は敬遠して立ち寄らぬ臺所、けふはエプロン着けて鼻歌交りのお手傳ひ、肘まで粉にまみれパッタンパッタンと生地打ち付くる母の姿の頼もしく、海老の殻むき背わた取り、をとつひ先生に掃除の樣をば褒められし、きのふ親友チイちゃんとかかることありて喧嘩せしと、合間合間にうち語らふほどに、會社の父より電話あり、同僚二三人連れて歸宅すべきを、酒のつまみ用意せよとのお達しありとか、母は俄かに眉根を寄せて我が面うちまもりつつ、まらうとにピザは片端ならむ、今宵は堪忍してたも、その海老甘辛く煮付けてつまみの一品に添へなむと、返事も聞かずに生地もチーズもとり片付けたるはあまりに大人の身勝手、さばかり約束せしものを、嘘つき嘘つき嘘つきと、さか髪たてて地團太踏み、歯軋りしつつ泣き騒ぐを、母も呆れてをさをさあへしらはず、食卓のカバー付け替へ、辛子和へ山葵漬け燻製などとり並べ、我が海老さへ煮物となし果てて客用の皿に盛り付けたる、口惜しさ言はむかたなし。
 子供心に傷つけられて、床臥しまろび天仰ぎ、この世の終はりと泣き喚く折からに父の御歸還、ほろ醉ひ加減の大人三四人うち連れて、ドヤドヤと上がりこめば居間は忽ち酒宴の續き、姉妹は行儀良く挨拶し頭撫でられ土産などもらふを、拗ね者の次女はいかにしたるぞさもしき奴、置け置け、文句言ふには食はすなと事情察せし父にも一喝され、げにぞ身の置き所なき。
 一寸の虫にも五分の魂、幼くともプライドあれば我からは折れじと決意固めて挨拶にも出でず、子供部屋の布團に息を潜めたるに、やうやう酒宴も果てつるにや、一人また一人と客人も歸りたる氣配、親への口答へはこの家にては食事抜きの極刑なれば、今更に甘き汁をば思はねど、さばかりの叫喚に声嗄れ腹も空き果てて、水一杯をだに飲まばやと、ひもじさに耐へ兼ね恐る恐るにさし覗くを、台所に佇める母の目ざとく見付けて無言の手招き、炊飯器傍の椅子に座らせて次々と握り飯渡すを、これも無言にとり食ふ娘、冷飯に味噌まぶせるのみの握り飯ながら、涙交りに噛みしめし味のうまかりしよ、父は酒豪の人なればさしも醉はで居間に新聞讀むめるを、背を向けたれば母娘の遣り取り心付かざりしか、武士の情けと見逃したりしか、いさや今も知らず。





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