三


  隣町ながら疎遠になりつる伯父の、旅行土産あるを取りに來よと言ひおこせたれば、無沙汰の詫びかねがね、二つ返事にて參りぬ。オオ達者かと出で迎へたる老いの笑顔、挨拶もそこそこに座卓にうちひろげたる見れば、大きなる地圖の所々引きやれたる、これぞ我が四國遍路の道しるべよと身を乗り出して、同宿なりける人との語らひ、門前茶屋の冷茶の美味さ、難儀の道にて受けたるゆきずりの恩、身振り手振りの物語、この日はここにて一泊、あくる日は夜明けに發ちてと律儀に赤線たどりては、次見すべきはこれよと取出でたる朱印帳數冊、座布團上の正座苦しく、度々足を組み替へながら、話の腰をば折れずして、久しき時を過ぐしぬ。
 さてもこの伯父上、かかる長話好む人にはあらざりしを、別人かと目瞠らるる大饒舌、寡黙陰氣無趣味と三拍子揃ひし人の、縦のもの横にもせずと女房嘆かせし人の、七十路にあまりて初の獨り旅行とや、いかに思ひ立ちけむ、年寄りの冷や水と、草葉の陰にて案ずる人もあるべし。  この夫婦もとは從兄妹同士なれば、伯母なる人も遠きゆかりに連なる人、伯父より血は薄けれど、我ら姉妹伯母さん伯母さんとて胸に甘え、背に取り付きて睦びしは、生來の陽氣に、陰氣亭主の分まで取り添へたる笑ひ上戸、アレ縁側に雀の來たるとては笑ひ、鍋に豆の彈けたりとてはまた笑ふ朗らかさ、子寶なき古家の軒先に、響くやソプラノの歌聲、匂ふや丹精の花の色々、たくまぬ愛敬に近所の主婦連も釣り込まれて、夫の無愛想も定年前の失職も、惡意に人の噂口にはのぼらざりき。
 働き盛りに無職となりて、からくも地元に再就職、細々と日々の糧をば紡ぎつつも、伯父の無口人嫌ひいよいよつのりて、隠居決め込み黴くさき書斎にひねもす籠れば、妻なる人の役とては、ヤレ募金ヤレゴミ掃除の町内会、親戚付き合ひのもろもろ、世間と良人の橋渡し、小さき體に心労いみじかりけむを、變はらず笑ひがちに足どり輕やかに、あなたあなたとつま呼ぶ聲の優しかりけり。
 かくてかたみにとも白髪、事無く過ぐしてもあらましを、會者定離の哀しさは、めでたき古希の検診に、妻のみかかれる陽性検査、末期なれば回復の見込みなしとて寝耳に水の癌宣告、痛み緩和のホスピスケア、延命無用のリビングウイルなど、聞きも知られぬ横文字飛び交ふ中、髪抜けいとど小さくなりて、枕邊の千羽鶴むなしく、暁近き別れなりけり。
 太陽なくして、いかに荒れ家の寂しからむ、今更にこととふ人のあるべしやと心苦しう思ひやりつつ、二年あまりの年月過ぐして、思ひもかけざりつるけふの笑顔、心の底より嬉しくて、さてもいかで思ひ立たれし長旅ぞ、道々つれづれにおはしけむをとねぎらへば、ナニ此れと同伴せしかばつれづれのあるべきかは、承知の通りのお喋りなればと胸ポケツトより取出たる木彫り観音、面ざしの優しきは成程伯母に通へるを、手の内に包みて、この旅行は皮切り、足萎へぬ限りはこの連れと各地廻らむ、隣の老爺の教へしは、公民館てふ所にて、山歩き寺詣で旧跡巡り、金かけでをちこち廻る同好會あなるを、物は試しに申し込まんと思ふぞと、サイン濟みの申込書まで見せ、話盡きせず夏の日しづかに暮れゆけり。





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