吾が昭和の豐けき青春 内藤ないとう 賦一ますかず
昭和二十一年八月二日、福井縣たけ市にて男六人女一人の七人兄弟の五男として出生す。明治三十年生れの父は、佛師を生業とし近在の社寺或は富裕家からの注文により彩色又は木地の儘の佛像・神像を制作す。大東亞戰前、父少壯の折には好景氣にて注文仕事多く比較的裕福なりしが、戰後は主たる注文主たる農家の疲弊せるが故か大仕事は殆ど無き有樣にて、七人の子供養育の爲雜多なる端た金の手間仕事に追はれたり。
然るに「高度成長時代への突入」と軌を一にして、父に大チャンスが到來せり。天台宗中興の祖の一人なる眞盛しんせい上人(圓戒國ゑんかいこく)の等身大彩色坐像を比叡山延暦寺に納入するの注文舞込めり。齋戒沐浴し尊像彫琢に打込みし父の姿は鬼氣迫り氣高くさへありし。吾人亡き父を誇りとせる由縁なり。
昭和三十四年秋、門徒衆多數を供に武生の眞盛宗本山引接いんぜふを輿にて出立せしご上人像は、北陸街道を徒歩かちにて上り、琵琶湖南畔坂本より更に衆徒の手により比叡山上に到達せり。父・雅雲の絶頂の日なりき(號なる雅雲の雲は彼が尊敬せし高村光雲より採りしものとぞ聞く。尋常小卒後の指物屋の丁稚生活に飽足らず光雲に弟子入りせんと家出せしも壯圖成らず横濱驛にて保護せらると聞く)。
吾人年中行事として正月に比叡山登山を成す。延暦寺根本中堂上手なる大講堂に同寺にて修行なされし名僧の像を安置し、其の右より二番目に吾が「眞盛上人」坐しませり。その御尊顏は吾が父のかんばせなり。吾人、ご上人に對面し前の年の報告と今年の願ひを祈る。
吾が生地の武生は、古へ越前の國府が置かれ、北陸街道の要衝の地にして物産の集散地として榮えし商都なりと聞けども、當今の有樣は他の地に異ならず往年繁華の街竝は駐車場とシャッターのみ目立ち、更に一昨年流行の市町村合併を斷行し二千年來の武生の名を越前市と替ふるに至り、當に「昔の姿無かりけり」の慘状をなす。
昭和四十年春、福井市なる藤島高校(舊制福井中學、ノーベル賞の南部陽一郎氏の出身校として一時世の耳目を集む)卒業後東京大學に入學し、學内の駒場寮にて新生活を始む。既にして大學構内は學生運動喧しくなりつつありき。第一次安保の騷動より十年を經て學内漸く靜謐を取戻せし折柄、此頃進められし日韓條約締結交渉が學生運動のテーマとして浮揚し、學内立看と擴聲器のアジ演説溢れ、次第に落著きを缺く殺伐の雰圍氣日常化するに至れり。
吾人は寮にて反帝學評に屬する先輩に勸誘せられ數度國會デモに參加せるも、機動隊に蹴られ抓られ追ひ立てらるるの繰り返しに嫌氣差し飽きも來てつひには離脱せり。其の後は、矢張り寮在住の郷里の先輩の勸誘により應援部に入部す。爾來これこそ吾が本望なれと思ひ成して此の部活動に耽溺し四年次には主將を勤む。リーダー部員及び吹奏樂部員合はせ七十餘名を擁せり。今でこそ激越にして利他的なる自己犧牲の部活動の樣がNHKに採録されかなり人目を引くも、當時吾等が時代の其れは寧ろ遙かに自由にして自發的なりし。ただ、神宮球場に於ける六大學野球の東大の連戰連敗に痺れを切らし酒氣帶びし擧句「氣合」を入れんと野球部合宿寮に亂入せし事あり。慮外、監督さんが直直に玄關に出て謝罪せられたるに卻りて恐縮す。當時の東京六大學、明治大學に星野投手、法政に田淵・山本・富田の三羽烏と山中投手、早稻田に荒川・小坂投手等々綺羅星の如し。連敗も已んぬる哉。
昭和四十三年頃なるか、此等學生運動が最盛時に至るや學内は悉く學生に封鎖せられ剩へセクト間の内ゲバが日常化す。斯かる状況下、吾が應援部員の行動的傾向は學内の雰圍氣を其の儘反映し、全共鬪系、日共民青系、ノンポリ系に凡そ三分する氣配を見せ甚だ氣まづき空氣となり凡そ部の統合運營を進むる能はず暫し活動を休止する已む無きに至れり。六大學野球秋のシーズンは漸くやり通せしものの、當時折角立ち上がりし吹奏樂團演奏會の中止を決定。其の後、其の復活を圖るも八年後まで果たせず。眞に苦澁の選擇なりしも中止の事其の後長く後悔せり。
昭和四十四年一月の二日間に渉る安田講堂攻防戰を經て籠城學生は全て排除され急速に學内鎭靜化に向かへり。當時四年次なりし吾人、これらの状況を奇貨として更に加へて二年學内に遊學し都合六年に及ぶ自由懶惰の生活を送れり。當時好景氣の故に有利なるアルバイトに惠まれ郷里からの仕送り殆ど不要なりし事もこの留年を可能ならしむ。最早還らざる往昔の事なれど、あの時期部活動に注入せしエネルギーを勉學に差し向くる事無かりしの憾み遺れり。
昭和四十六年四月、日清紡績に入社せり。應援部先輩の勸誘に迷はず應ぜしものにして、別個の他社と比較考量して決めしものに非ず。實に鷹揚と言はんか好い加減と言はんか、今や紡績業は構造不況業種なるに何ぞ入社せると吾を謗る者ありしも意に介さざりき。會社なればいづくも同じといふ氣分なり。
日清紡は當時、本業の綿紡中心の超堅實經營の會社にして無駄を徹底排除し出費抑制が全社に行渡る社風なり。自社を自虐的にケッチン紡と言ひ募る社員も居れり。入社式の折、櫻田武社長の講話有り。長軀痩身にして夫子然たりしが、其眼光炯炯たる、又ふたつ耳朶みみたぶ潰れたる容貌ぞ印象に殘れる。耳朶は岡山・六高柔道部傳統の寢技の猛稽古に因るものとて得心す。
故ありて在社二年の後同社を退職せり。在社期間こそ僅かなりしも在職中の想ひ出は未だに盡きず。結婚を控へ再就職を焦る吾人に後日入社するソニーを紹介して下されしは、退職時富山工場勤勞課にて仕へし課長なり。吾人は未だに懷深き會社なりと日清紡と人を敬愛す。
昭和四十八年四月、ソニーに入社せり。北品川の本社勤勞部にて就勞す。時たま社内巡囘中の創業者井深大氏や盛田昭夫氏の社服姿を瞥見せり。今は考へ及ばぬ風景なり。當時同社賣上は電機業界にてビクターの後塵を拜する六・七位の規模なり。以來三十三年、吾人は同社にて人事・勞務・總務の範疇の業務に就き、厚木テクノロジーセンター(舊厚木工場)代表の職を以て六十歳定年退職す。
在職時の痛快事は、品川驛裏に在りし芝浦工場にてウォークマン・CD・八ミリビデオ等を櫛の齒を挽くが如く次々と世界に先驅け開發・製品化し、業界を席捲し續けたる猛烈なる熱氣の中で仕事する機に遭遇せし事なり。翻りて痛恨事は、家庭用ビデオ。ベータマックス敗退に依る幸田工場の大リストラ、同和問題に端を發する糾彈學習會、インドネシアのオーディオ工場に於る大ストライキ等なり。
大東亞戰爭敗戰直後に生を享け、復興期の貧しくも希望滿ち光輝ける時代に一生懸命なる先生方より教育を受け、經濟成長興隆日本の企業にて力一杯働き得たり。然り、昭和の日々は斯くも豐けき時代なりき。友と會へば言ふ、「あの頃は佳き時代なりし」と。然るに吾人は今、何故か惑ふ、何事か思ひ惱む。長き六十年の間に、吾人にとり掛替へ無き大事の何物かを置き忘れたるらむと。                    以上

* 自己紹介を論題とし「文語文」を初めて試む。市川浩先輩の添削あるを記し、謝意を表す。


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