蒙疆もうきやうより日本に宛てたる二通の封書
                中島八十一

 幼少の折、古き文箱に泰西諸国より届きたる封書、はがきを見出し、爾来、切手収集に勤しみ、長じては「郵便史」なる、世人には甚だ了解しがたからむ趣味に進みたり。
  郵便史とは、これ郵便の歴史を一通の封書から説き起こし、さらには背後の歴史ならびに地政學を説くものなり。集めたる封書の類を眺むるに、淺學にて説くほどの學持たざれば、これを他人に語ること寡く、かつがつ文語の修練に使用せるが専らなりき。
 郵便史に言ふ蒙疆なる語は、蒙古と新疆を指すものなれば、日支事變勃發後に長城線を超えたる關外に、徳王が建てたる蒙疆には非ず。そも蒙古と新疆は、清朝がその版圖に収めはしたるものの、邊境故に、大清郵政に組込まれたる逓送網の運用を見るは、はるかに後れて明治四十三年(一九一〇年)のことなり。かかる清朝の事業に先立ちては、帝政ロシアの郵便局が活動せり。
 今ここに紹介せんとする所蔵品のひとつは、切手の図案の、清朝皇帝の衣服に見らるるが如き蟠龍はんりょうを貼りたる封書なり。封筒上の消印より、差立地は新疆・古城にて、差立日は庚戌二月三日(陽暦明治四十三年三月十二日、一九一〇年)と判明す。古城は現今の奇台にて、新疆ウイグル自治區の政府所在地たるウルムチの東百五十キロに位置する街なり。差立者は林出賢次郎とあり、彼の地を探索せしは日本外務省の命によるものと聞く。されど、そは郵便史の本題に非ず。収集家の關心の趨くところは、彼の地の郵便事業草創期の封書たることに盡き、大清郵政が運びし外國宛郵便物として最早期のものなる記録を持す。加へてその逓送に伴ふ料金も關心の対象なりき。額面二分の蟠龍切手三枚にて合計六分を拂ひしを奇なることと見ば、この時點にて本稿は讀者を失ふ虞れなしとせず。往事の大清郵政の封書基本料金は国内宛三分、外国宛十分なり。蒙疆は邊境の地なることに鑑み、省内宛三分、他省(内地)宛六分、外国宛十分なり。大清郵政時代に新疆を發出せる封書の現存せるは二十通を越えず、しかも多くは北京に宛てたるものなり。その過半は、料金十分を拂ひたる封書にて、省都・迪化ウルムチを發したる後、一旦ロシア領内に出で、シベリア鐵道を經て満洲より北京に入京したれば、これ外國便の扱ひを受けたるものなり。
  甘粛より河西回廊を經て西安に向ふ便、或いは黄河沿ひに戈壁ゴビの邊縁を辿りて入京せる郵便は、シベリア経由により他省宛とせられたる料金に比し低廉なるも、要する日數多ければ利用せる者多からず。かくのごとき逓送手段は、上海より雲南に封書を送るに外國便扱ひとし、安南・海防までを船舶により、爾後をフランスが建設せし鐵路に委ねたることに、或いは北京から西蔵へ送るに外國便とし、印度までを船舶により、陸路をヒマラヤまで至らしめたる後、英國軍事郵便の力によりて喇薩ラサへ届けたる方法に似ずや。
  しかるに、明治三十六年(一九〇三年)に結ばれし日清假郵便條約てふ取決めは、日清間の郵便物は互ひの國内料金を適用することとすとせられたるものなり。仍て清國より日本に宛てたる封書の基本料金は三分にて、そは新疆から日本に宛てたる郵便と變はるところなし。而して迪化から北京に宛てたるは料金は六分、迪化より東京宛ては三分なれば、ここに料金の逆轉を見るに至る。これを奇なりとするに不審あらんや。林出賢次郎差立のこの封書は重量便なる故に基本料金の二倍、六分を払ひたるものなり。新疆より河西回廊を下りて中國内地に至り、北京を經由し、満洲・長春にて四月十四日に日本郵政に引繼がれたるものにて、かかる道程に三十三日を費やせり。のち朝鮮半島を經て東京に着きたるは四月二十日のことなり。本邦に到達せるや否や、料金は半額になりたるものなり。
   余が所藏品の今ひとつは、揚子江を往くジャンクを圖案とせる切手を貼りたる封書なり。こは先に説明せる封書の切手と異なり、中華民國と表記せる、額面三分の切手ただ一枚が見らるるばかりなり。差立地は蒙古・庫倫クーロンにて、差立日付は民國九年(一九二〇)一月一日なり。庫倫は現今のウランバートルにて、蒙古の首都なり。差立者は松井七夫中佐とあり。松井石根大將の弟にて、特務機關長として外蒙の情勢調査に當たりたる折に、岡山所在の上官に年賀を送りたるがこの封書なり。清朝が始めし蒙古の郵政事業は、そのまま民國が繼承し、庫倫、恰克圖キャフタ烏里雅蘇台ウリヤスタイ科布図コブドの四郵政局を運営しきたるに、蒙古社會主義革命おこりて大正十一年(一九二二)、その活動を停止せり。先の新疆の例に見たるがごとく、庫倫より北京に宛てたる封書は六分なりしが、若しこれを日本にて差立つれば三分のはずなるも、かかる實例を見ることなきままに、理論上の料金計算として久しく時を經たり。然るに、電腦競賣サイトにそが出現したるは平成十七年のことにて、早速に落札、入手せることによりて、ここに理論値が理論に終はらずに濟みたること實證せられたり。想像するに、中華郵政と大書せる大葛籠に入れられたる郵便は、双瘤駱駝ふたこぶらくだの背に乗せられて庫倫を出立し、延々たる戈壁の沙漠を渡り、内蒙の張家口(一月十二日)に至りて漸く鐵路見つけ、北京(一月十二日)、奉天と辿りて日本へ到る、そが常套の逓送路なりき。岡山に着きしは一月十九日頃ならむ。これら二通の後、昭和十年(一九三五)に蒙疆獨自の料金体系の廃せらるるに至るまで、いづれの領域よりも日本人の手により差立てられたる郵便物の見ることなし。

           
▼「逍遥亭」目次へ戻る