『紅樓夢』記・四(平成二十一年九月)
                 

  『紅樓夢』に林黛玉、薛寶釵の二人の女主人公あるも、主人公、賈寶玉が心の想ひ人は、斷然、林黛玉なり。『紅樓夢』篇中に作中人物等の詠じたる詩數多引用すれど、林黛玉の詩の出色なるは、作者特別の意を用ゐて作詩せる故か。但し我想像を逞しうして、曹雪芹の少年時に、黛玉を彷彿せしむる早熟の少女の實存し、『紅樓夢』中なる賈寶玉と林黛玉の戀の達引きは、雪芹と若き日の早逝の想ひ人との實體驗を活寫せるに非ずやと疑ふ。さなりとせば作中の林黛玉が詩は、雪芹の記憶せる昔日の才彈けたる少女の詩なるやも知れず。我斯く想像するは、『紅樓夢』中の林黛玉が詩、明確なる個性と、病身にして纖細、多感、潔癖なる少女特有の感傷もて際立てる故なり。


 晩秋の秋霖脈脈、陰晴不定なる黄昏、林黛玉の心に覺えずして發したる詩句に曰く。こは永井荷風の愛でたる詩なりき。


秋花慘淡秋草黄  秋花慘淡にして秋草黄なり
耿耿秋燈秋夜長  耿耿たる秋燈秋夜長し
已覺秋窗秋不盡  已に覺ゆ秋窗に秋盡きざるを
那堪風雨助凄凉  那いかで堪へむ風雨の凄凉を助くるを
助秋風雨來何速  秋を助くる風雨來たること何ぞ速き
驚破秋窗秋夢緑  秋窗に驚破す秋に緑を夢むを
 …               …
誰家秋院無風入  誰が家の秋のにはに風の入る無く
何處秋窗無雨聲  何處いづくの秋の窗に雨の聲無き
 …               …
寒烟小院轉蕭條  寒烟の小院うたた蕭條
疏竹虚窗時滴瀝  疏竹虚窗に時に滴瀝
不知風雨幾時休  風雨の幾時休むを知らざるに
已教涙灑窗紗濕  已に涙窗紗に灑ぎて濕ら教む


 『紅樓夢』中の最も有名なる一節は、林黛玉の散りし花を葬る場なり。散りし花の水面を流れ行き、人家に至りて汚物に塗るるは黛玉の得堪ふる所に非ざれば、地面に散り敷く花瓣を薄絹の袋に收納し、埋香塚と名附くる花の墓に葬るなり。花鋤もて花瓣を蒐めたる林黛玉の、嗚咽しつつ花を葬る歌に曰く。


花謝花飛花滿天  花り花飛びて花天に滿つ
紅消香斷有誰憐  紅消え香斷つも誰有りてか憐れまん
遊絲軟繋飄春   遊絲軟く繋りて春 に飄へり
落絮輕沾撲繍簾  落絮輕くれて繍簾を
閨中女兒惜春暮  閨中の女兒春の暮るるを惜しむ
愁緒滿懷無釋處  愁緒ふところに滿ちてくる處無し
手把花鋤出繍簾  手に花鋤を把りて繍簾を出づ
忍踏落花來復去  落花を踏むを忍びて來たり復去る
 …            …
桃李明年能再發  桃李明年能く再びひらくも
明年閨中知有誰  明年閨中誰有るを知らむ
…            …
一年三百六十日  一年三百六十日
風刀霜劔嚴相逼  風の刀霜の劔嚴しく相せま
明媚鮮妍能幾時  明媚鮮妍能く幾時ぞ
一朝飄泊難尋覓  一朝飄泊すれば尋ね覓むるに難し
花開易見落難尋  花開けば見るに易く落つれば尋ね難し
階前悶殺葬花人  階前に悶殺す花を葬る人
獨把花鋤涙暗灑  獨り花鋤を把りて涙ひそかにそそ
灑上空枝見血痕  灑ぎ上ぐれば空枝に血痕を見る
杜鵑無語正黄昏  杜鵑ことば無く正に黄昏
荷鋤歸去掩重門  鋤を荷つて歸り重く門をとざ
青燈照壁人初眠  青燈壁を照らして人初めて眠る
冷雨敲窗被不温  冷雨窗を敲きて被温まらず
…            …
昨宵庭外悲歌發  昨宵庭外悲歌發す
知是花魂與鳥魂  知らむは是花魂なりや鳥魂なりや
花魂鳥魂總難留  花魂鳥魂總て留め難し
鳥自無言花自羞  鳥自ら言無く花自ら羞づ
願奴脇下生雙翼  願はくはわが脇下に雙翼生じ
隨花飛到天盡頭  花の飛ぶに隨ひて天盡くるほとりに到らむ
天盡頭 何處有香丘  天盡くるほとり 何處にか香丘有らむ
…        …
儂今葬花人笑癡  われ今花を葬る人こけと笑へ
他年葬儂知是誰  他年われを葬る是誰と知らんや
試看春殘花漸落  試みに看よ春すがれ花漸く落つ
便是紅顏老死時  便ち是紅顏老い死するの時
一朝春盡紅顏老  一朝春盡きて紅顏老ゆ
花落人亡兩不知  花落ち人亡じふたつながら知らず


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