張愛玲記(一)張愛玲なる文學者(平成二十一年二月)
                 

  張愛玲なる文學者あり。北京の友人に購入・送付方依頼したる渠が作品、四册屆く。小説三册、『傾城之戀』、『郁金香』、『半生縁』及び長編評論、『紅樓夢魘』なり。
張愛玲は、かの李鴻章の曾孫に當る女流作家にして、一九二〇年上海の上流家庭に生れ、一九四〇年代、日本占領下の上海にて、若き新進女流作家として注目せらる。出自・經歴より、又思想信條より、共産黨政權成立後の中國に留まるを得ず。一九五二年に香港、次いで五五年には米國に居を移し、一九九五年、ロスアンゼルス郊外に歿す。作品は香港、臺灣にては讀まるるも、中國本土に讀者を得たるは一九八〇年代以降なり。
 我中國に在りし二〇〇六〜七年の頃、張愛玲の名を聞くこと、頻りなりき。女子學生等に中國文學の最も傑れたる女流作家を問ひしに、十中八、九の擧ぐるは、日本にも知られたる丁玲に非ず、謝冰心に非ず、張愛玲なりき。如何なる作風の作家なりやを訊ぬれど、要領を得ず。女子學生等の拙き日本語にては説明し得ざるものの如く、我が好奇心はいや増さりぬ。
 歸國後神田の書店に尋ぬるに、張愛玲が小説の邦語譯は廖々たるらし。探し求めて二、三の短編小説の邦語譯を入手せるも、張愛玲の眞價を知るに程遠し。
 然るに昨年末縁有りて、二〇〇七年のベネチア映畫祭大賞を獲得せる米中合作映畫、李安監督の『色、戒』を見る。日本軍占領下の上海に材を採り、汪兆銘政權の情報機關幹部に色仕掛けもて近附く若き女性祕密工作員を描く。當時の陰謀渦卷く上海の場景を現代に再現し、そが渦中に、人知・人力の全てを賭くる男女の戰ひは、凄絶の極みなり。人の心の闇を覗き、人の性の深淵に戰慄す。畏怖すべき傑作なりき。
 パンフレットに、映畫の原作は張愛玲の同名の短編小説なりと出づ。張愛玲は、當時の上海にて、汪政權情報機關幹部と愛人關係なりし如し。うべなるかな、當時の日本軍、汪政權、國民黨、共産黨、入り亂れたる情報工作の實情を活寫せるは。そを知りて我が張愛玲を讀まん思ひ抑へ難く、遂に北京の友人を煩はし、張愛玲が著作の入手・郵送方を依頼せるなり。
『色、戒』は、短編小説集『郁金香』に收録す。こは曾て張愛玲の執筆せる小説を、現代の研究者が探索し、編みたる小説集にして、『郁金香』なる小説は、二〇〇五年に發見せられたりと傳ふ。『郁金香』は、日本の漢字ならば「鬱金香」と書くべく、チューリップのことなり。
 『傾城之戀』は、處女小説集『傳奇』の作品を集む。「傾城」は、日本語にては「ケイジョウ」と讀むべく、「ケイセイ」に非ず。本年北京中央電視局は、此の作品を電視劇化して放映の豫定なりと言ふ。張愛玲の評價の、現代中國にて高まりたるを知るべし。
 『半生縁』は、共産黨政權成立後に梁京なる筆名にて發表せる小説に手を加へ、一九六九年に臺灣にて刊行せる張愛玲唯一の長編小説。『紅樓夢魘』、「紅樓の夢にうなされて」は、幼時より愛讀せる『紅樓夢』を縱横に論じたる評論なり。
『紅樓夢』は、現代中國人の愛惜措く能はざる小説にして、こを愛讀・耽讀せる讀者を「紅迷」と稱す。かの毛澤東も「紅迷」の一人にして、一共産黨系文藝評論家の『紅樓夢』を「ブルジョア小説」と爲したるに怒りて、妻の江青をして反論せしめたり。恥かし乍ら我も亦、邦語譯『紅樓夢』を已に十囘讀みたる「紅迷」なり。
世に「紅迷」犇めく故か、『紅樓夢』の成立事情、登場人物のモデル等の微に入り、細を穿ちたる研究、中國の書店の棚に溢る。斯く夥しき『紅樓夢』研究、「紅學」の名に呼ばる。何ぞ圖らん、現今、張愛玲研究また數多出でて、「張學」と稱せらるるを。


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