『紅樓夢』記・一(平成二十年六月)
                 

  我が愛讀の書に『紅樓夢』あり。梅雨の一日、つれづれなる儘に幾度になるや、得知らざるも、再び『紅樓夢』の書を手に取りつ。此の度は邦語譯本のみならず、漢語原本もあり、原文の漢字に日本語口語文の讀みを附したる幸田露伴が譯本、また身邊に見ゆ。一時に三本を參照しつつ、讀み進む事とせり。
 『紅樓夢』は清朝乾隆期に世に出でたる長篇の小説なり。若き日の作者曹雪芹自身と覺ゆる主人公、賈寳玉の、大貴族が家に生れ育ち、才色ともに惠まるる侍女等にかしづかれ、從妹の林黛玉との戀情と達引きに懊惱する日々を描く。贅を盡したる大邸宅に緩やかに四季は移り替り、折々の行事・歡樂の華麗にして美を極めたる、過ぎ行きし時の流れを偲ばしむ。豈嘆息せざるを得んや。若き日を哀惜する作者の描冩は眞に迫り、細を穿つ。數多の多彩なる登場人物等は、宛ら活人畫を見るが如く、眼前に生きて在るが如し。
 されど湯水の如く財を散ずれば、富裕なる家なりと雖も、いつか凋落の日の忍び寄るを避け得ず。但し崩潰の豫兆、大家の家中に擴がるに及びて、曹雪芹の著せし小説は中斷す。則ち『紅樓夢』は未完の書なり。
『紅樓夢』の文は清代の白話文にして、近代の白話文成立に多くの示唆を與へたりと言ふ。一例を擧ぐれば、林黛玉の賈寳玉の家に來りし日の情景は下記の如く、全文漢文にて讀下し可能なり。
 「黛玉方進入房時、只見兩個人巉著一位髣髮如銀老母迎上來。黛玉便知是他外祖母。方欲拜見時、早被他外祖母一把才婁入懷中。」は、斯く訓ず可し。
黛玉まさに房(部屋)に進み入りたる時、只見る、兩個(二人)の人の巉著(支へ)たる一位(一人)の髮銀の如き老母の迎へ來たるを。黛玉便すなはち是他(渠)が外祖母なるを知る。方に拜見せんと欲する時、早くも他が外祖母に一把(一遍)に懷中に才婁入(抱擁)せられたり。


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