『禹域遊吟』 その九十二
蘭 亭 らんてい
紹興の南郊、三十里(十五キロ)ほど行けば、「山は重なり水は複なりまた一村」
といふ陸放翁の詩の世界へと入る。當今は全く觀光名所となりたるが、周圍のたた
ずまひは舊の如く、ゆかしきものを感ず。
山重路遶遠村微 山重なり路遶り遠村微なり
獨訪蘭亭遊客稀 獨り蘭亭を訪ぬれば遊客稀なり
雨點鵝池雲漠漠 雨は鵝池に點じて 雲漠漠
風吹曲水柳依依
風は曲水を吹いて 柳依依たり
當年高韻猶難忘 當年の高韻 猶ほ忘れ難し
昨日權謀已覺非 昨日の權謀 已に非なるを覺ゆ
破舊立新終底事
舊を破り新を立つるは終に底事(なにごと) ぞ
斷碑罅上晩鴉飛 斷碑罅(か)上に 晩鴉飛ぶ
[微]
○ 昭和五十七年九月
*鵝池 池の名。もと紹興の東北、王義之の舊宅にありき。今、蘭亭に復元す。王義之は鵝鳥を愛し『道徳經』を寫して交換するほどなりき。
*曲水 屈曲せる流れ。王義之は永和九年三月三日、當時の名士四十一人と蘭亭に集ひ、曲水に觴(さかづき)を流して禊事(けいじ)を修め、詩を賦せり。
*依依 細く、なよなよしてゐる樣。
*當年の高韻 曲水の宴をいふ。
*昨日權謀 ここは文化大革命(一九六六〜一九七六)をいふ。
*破舊立新 古き思想文化・風習を破壞排除し新しきものを確立す。文化大革命時の標語なりき。
*底事 何事に同じ。
*罅 われめ。隙間。