折口信夫 □診斷・日本人
                 

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 中學三年の秋、彼は中學生の禁慾生活を目的とせる修養會「琴聲會」に入りたり。あるいは、翌年五月の文學會(學藝會相當)におきて「變生男子」なる演題にて性に關心をもつ中學生の惰弱をいましむる志士的なる演説を行なひたりもす。これは痛ましきほどなる反動形成的試みともいふべし。斯かる内面的危機にうながされたる信夫は、國學者の系譜に繋がるべく醫科へ進むことをやめ、國學院大學に入學せり。
 國學院入學後もかかる傾向は續き、一種の氣負ひの状態持續して宗派神道教義研究團體なる「神風會」に加はり、街頭布教演説を行なふなどす。
 大學卒業後は教師となり、國文學を講ずる傍ら國文學を通じて生徒を全人的に教育せむとす。教師になることによりて、自己の同性愛的衝動を教育者としての生徒への愛情へと轉化せむと試む。この試みは本郷の昌平館における十人の生徒との集團生活によりて一つの頂點に達す。この集團生活が具體的に如何なるものなりしかは明らかならざれども、嚴しき、禁慾的なる生活律にて貫かれたる、祕教的ともいふべき息苦しき全人的なる訓育にてありたるがごとし。性的同一性に弱點をもてる信夫が、生徒達を超男性的に訓育せむとする反動形成的企投には、乘り越えがたき無理あらむ。この集團生活は間もなく經濟上の理由にて破綻を來せるが、この中に後年の信夫中心の短歌結社を軸とせる閉鎖的集團の原型を垣間見ることを得。
 この頃「アララギ」に近づきたれど、萬葉集の解釋をめぐりて齋藤茂吉と論爭し、間もなく「アララギ」からは離れ、次第に獨自の地位を歌壇に築き行く。茂吉の「ますらをぶり」に對し信夫は、頑ななるまでに「たをやめぶり」を主張す。「たをやめぶり」は彼の資質の本質的部分をなしをりたる故にて、ここにも信夫の居直りの樣を伺ふを得む。彼の短歌は大きく分けて、愛、旅、身邊生活、社會生活を主題にしたるものと言ひうるが、中にも愛の歌には彼の同性愛的感情、綿々と歌はれをりたり。ことに愛する對象を失ひたる悲しみ、嘆き、嫉妬、怒りは、信夫の短歌創作の一つの大きなる原動力なりき。例へば『海やまのあひだ』の中の連作「蒜の葉」には、彼に離反したる、當時の最愛の弟子伊勢清志への斷ち切れぬ思ひ歌はれたり。「雪間にかゞふ蒜の葉、若ければ、我にそむきて行く心はも」。
 信夫の生涯における最大の事件は柳田國男との出會ひなり。彼は柳田に私淑し、終生師と仰げり。柳田の學問の中に彼の生くべき「一筋の白道」を見出し、「まつしぐらにその道をかけ出し」、柳田の示唆に從ひて沖繩に旅行す。そこにて發見せる沖繩の民間傳承に觸發せられたる實感が、彼の『古代研究』を生む直接の動機となれり。彼にとりて祖父の面影が最初の父にてあるならば、柳田は第二の父にて、祖父の里大和が彼の第一の魂の故郷とするならば、沖繩は彼の第二の心の原點となれり。信夫は柳田に傾倒し、全的に彼の學問を攝取す。その結果、幼少より自己の支へと恃みきたりし國學の理念は、柳田の民俗學によりて學問としての實體を獲得するに至る。されど信夫は、人間的にも學問的にも柳田とは常にある距離をとりたる上にて、新しき國學を獨自に[文字鏡&040041;UCS91B1;酉へんに發]酵させ、折口學としての學問の體系と方法とを確立し行く。
 彼の民俗學の仕事が、コカインを用ゐ、旅行にて採取せる資料を媒介にしながら、一種の退行的なる夢幻状態にて書かれたるものなることはすでに述べたり。こは一種の創造的退行にて、黄泉の國に遊び、再び生まるるといふ再生體驗。″よみがへり″體驗に一種の自己治療性を見るも可ならむ。柳田は信夫の仕事の獨創性を高く評價し、彼を受容しながらも、直觀的、實感的に流れて、非論理的、妄想的なるものに墮するの危險を指摘し、彼をたえず現實によび戻す治療者的なる役割を果すことも忘るなかりたるがごとし。
 かくて、信夫が慶應大學教授となり、大井出石に居を構へたる頃には、學者、教師、歌人としての彼固有の生き方、確立するに至りたり。



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