折口信夫 □診斷・日本人
                 

 5

 信夫は少年時代に父を通じて詩歌を知り、「うすら明るい知らぬ國の影」を感ず。詩歌の世界に「しみじみと親しまれる世界のやうな心地」を覺え、西行や芭蕉など、漂泊の詩人に己が孤獨なる心を託すに至る。當時在京中なりし叔母えいより送られたる『東京名所圖會』の見開きに書きとめたる短歌「たびごろもあつささむさをしのぎつつめぐりゆくゆくたびごろもかな」は、八歳頃の處女作と言はる。中學三年頃には鳳鳴會同人となりて短歌創作をはじめ、旅へ誘はるる心地高まる。
また姉を通じて國學者敷田年治を知り、「ある精神」を感じ、「國學を恃む氣持、國學の立つ所以の倫理感を感じ、それを摑むことに惝怳おそれらしいものを抱く」やうになる。十二歳の頃高山彦九郎の傳記を讀みて感激し、堺の仁徳陵にぬかづきしことあり。國學への志向は、強き祖父への憧れにうながされ、追々祖父の生家の所在せる地、大和に己が塊の故郷を感ずるに至り、中學時代にはしばしば大和旅行を試み、祖父の里とも舊交を復したりもせり。
 信夫少年時代の斯かる姿は、すでに後年の詩人、國學者をおもはするところあり、黒衣の旅人としての信夫の原型見出し得。彼にとり詩歌の世界とは、愛うすき薄幸なる孤獨の少年が怨念のこめられたる流離の旅の中にて、傷つきたる魂を鎭むるが目的の自己愛的なる世界にて、「たをやめぶり」の女性的なる世界なりき。對する國學の世界とは、生命力の弱さを感じきたりし信夫が、力強く男性的なる國學に恃みて、自己が生存の不安を克服せむとせるものにて、彼にとりての國學とは「氣概の學として」の男性的世界なりと見做すことも可なり。
『零時日記』に目を通すに、信夫は父が死亡せる十六歳前後、三囘にわたりて自殺を企圖せしことあり。學業成績下がり、卒業試驗にも落第せるこの間の事情、明白とは言ひがたけれど、この時期が彼にとりて重大なる青春期の危機なりしこと、まづは疑ひなし。
 一般論よりせば、青春期は自己認識を迫られ、自己確立への試みの要請せらるる時期なり。生理的、心理的に成熟する時節なれば、恐らく信夫は己の特異なる資質との直面を迫られ、それをいかに超克するかが最大の課題となりたるものと想像せらる。その特異なる資質とは、性的同一性の不確實なること、つまり自己の男性性の弱さ、ゆらぎを指し、あるいは女性性の共存せること、同性愛的傾向の自覺(『ロぶえ』)なり。
 かくのごとき自己の特異性に對して信夫は、マゾヒスティックとも言ひ得るほど嚴しく性慾を抑壓しながら、その純粹性を美的に讚美して同性愛を肯定し、自己の女性性を否定せず、むしろ自己の弱き男性性を補強せしむることによりてこの危機を脱せむと務めたるがごとし。こは一種の居直りの姿勢なるが、苦澁に滿ちたる自己變革への志向は心的平衡を保つための絶えざる高き内的緊張を必要とし、おそらく後年のさまざまなる恐怖症状や嗜癖傾向は、このことと無關係にてはあるまじ。



▼「詩藻樓」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る